[アナキズム運動史]1911年1月18日

幸徳秋水ら 24名に死刑判決
大審院、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事総長の「有罪意見書」「論告」を追認するだけであった。


 唯一の独自判断は2名を「大逆罪」から外し爆発物取締罰則違反のみで認定しただけである。しかし、そうであるならば管轄違いであったということで差し戻し審に回すのが当時の法体系に沿うものである。

大審院が有罪理由とした24名を組み込んだ全体のストーリーはフレームアップされたものであり、その計画「赤旗事件への報復、暴力による反抗、赤旗事件の連累者の出獄を待ち東京の中心で暴動<富豪の財を奪い官庁を焼き払い殺し>を起こし宮城に逼る、あるいは決死の士50名により暴力革命を起こし皇太子を殺す」、は当事の状況下では全く不可能で現実化しようが無い。

幸徳事件大審院判決  抄

全文ではない。幸徳秋水に関わる「理由」を中心。いずれ全文をアップ。 2004年9月

理由

1904年 幸徳は夙に社会主義を研究して北米合衆国に遊び、深く其他の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。その帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然その首領たる観あり。

管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、その中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。

1908年6月22日 「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、その報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。ここに於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞(たくまし)うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し。

第一

1908年6月22日錦輝館赤旗事件の獄起るや、被告幸徳は時に帰省して高知県幡多郡中村町に在り、当局の処置を憤慨してその後図をなさんと欲し

1908年7月 その訳する所の無政府共産主義者ペートル・クロポトキン原著『パンの略取』と題する稿本を携え上京の途につき、迂路和歌山県牟婁新宮町の大石を訪問 成石平四郎、高木顕著明、峰尾節堂、崎久保誓一と会見

「政府の迫害甚しきにより反抗の必要なることを説き、越えて8月新宮を去りて

(1908年8月)箱根林泉寺内山愚童を訪問

赤旗事件報復の必要なること」を談じ

帰京の後東京府豊多摩郡淀橋町柏木に卜居し

次で同府北豊多摩郡巣鴨に転住し

「同主義者に対し常に暴力の反抗の必要」なる旨を唱道せり。

1908年9月 森近、坂本は巣鴨幸徳宅に客居

初め森近は無政府共産主義を奉じ、大阪に在りて『大阪平民新聞』或は『日本平民新聞』と称したる社会主義の新聞を発行し、また定時茶話会を開き無政府共産説を鼓吹す。

たまたま宮下心を同主義に傾けたるも、皇室前途の解決について惑う所あり

1907年12月13日 宮下太吉、森近を大阪平民社に訪うてこれを質す。

森近「即ち帝国紀元の史実信ずるに足らざることを説き、自ら宮下をして不臣の念を懐くに至らしむ。

その後宮下は内山愚童出版の『入獄紀念・無政府共産』と題する暴慢危激の小冊子を携え、東海道大府駅に至り、行幸の鹵簿(ろぼ)を拝観する群集に頒与し、且つこれに対して過激の無政府共産を宣伝するや

 衆みな欣聴するの風あれども、言一たび皇室の尊厳を冒すや、また耳を藉す者なきを見て思えらく、「帝国の革命を行わんと欲すれば先ず大逆を犯し、以て人民忠愛の信念を殺ぐに若ず」と。

「ここに於て宮下は爆裂弾を造り大逆罪を犯さんことを決意」し、

1908年11月13日その旨を記し且つ

「一朝東京に事あらば直ちに起ちてこれに応ずべき」

旨を記したる書面を森近に送り、

森近はこれを幸徳に示し、且つ

宮下の意志強固なることを推奨したるに、幸徳はこれを聴き喜色あり。

1908年11月19日 大石、幸徳訪問。

幸徳は森近、大石に対し、

赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを説き、予め決死の士を募らんことを託し」

森近、大石はこれに同意したり、

1908年11月中 松尾卯一太も幸徳を訪問

幸徳より前記の計画あることを聴て、均しくこれに同意したり。

幸徳は更にその顛末を新村忠雄及び坂本に告げ、特に坂本に対しては各地を遊説して決死の士を募るべきことを勧告したり。

新村は幸徳より無政府共産主義の説を聴てこれを奉じ、深く幸徳を崇拝す。

曽て群馬県高崎に於て『東北評論』と称する社会主義の新聞を発行し、その印刷人となりて主義の鼓吹に努め、信念最も熱烈なり。

1908年春頃より 坂本清馬、幸徳方出入り、その後『熊本評論』に入り、赤旗事件以後上京

幸徳方を去り宮崎県に往き、或は熊本県松尾卯一太方に寄宿

松尾、飛松与次郎等に対し暴慢危激の言を弄し、各地を放浪

1910年3月 佐藤庄太郎を東京市下谷区万年町2丁目の寓居を訪問、爆裂弾の製法を問えり

1908年12月 幸徳は『パンの略取』を出版

管野すが 近日当局の主義者に対し圧抑益々甚だしいと憤慨

「爆裂弾をもって大逆罪を犯し、革命の端を発せんと欲する意志を抱き、幸徳を巣鴨に訪ねこれを謀る、幸徳は喜んでこれに同意し、協力事を挙げんことを約し、且つ告ぐるに宮下太吉が爆裂弾を造りて大逆を行わんとする計画あること。及び事起るときは紀州と熊本に決死の士出づべきことをもってせり。

1909年1月14日 愚童は上京して幸徳を訪問、幸徳は欧字新聞に載せたる爆裂弾図を愚童に貸与し、坂本と共にこれを観覧…

▲愚童と管野

★宮下関連

1909年2月13日 宮下太吉、幸徳訪問し「逆謀」を告ぐ、幸徳「故さらに不得要領の答をなし」

宮下去るに及んで幸徳、スガ及び忠雄に語り、太吉の決意を称揚

宮下、森近を訪問「逆謀」を告ぐ

5月中、亀崎の松原徳重より爆裂弾の製法を聞く

6月明科に転勤、7日、幸徳訪問

幸徳、管野は新村忠雄、古河は各勇敢の人物なることを説き、これを宮下に推薦したり。

その後宮下は明科製材所に在りて同僚の職工等に対し無政府共産説を鼓吹し、

▲7月薬品の購入

また書を新宮町大石方に奇遇せる新村に寄せてその逆謀に同意せんことを求め、且つ塩酸加里の送付を乞う。

8月1日更に書を発してこれを促し、遂に

8月10日に新村より送致したる塩酸加里1ポンドを受領したり。

1909年4月以来新村忠雄は大石方に往き薬局の事務を補助、峰尾節堂、高木顕明等に対し「…大逆を行わんに若かず」との激語を放ち、殊に成石平四郎とは意気相投合し

1909年9月上旬、新村は帰京幸徳方に寓居、「1910年秋季爆裂弾を用いて大逆罪遂行」

1909年9月下旬 奥宮健之は幸徳方を訪問

1909年10月  再来訪

10数日後 幸徳に爆裂弾の製法を通知

1909年10月上旬 幸徳は古河を招致、『自由思想』印刷人

…宮下関連

★1909年10月12日 宮下、薬研入手

11月3日 爆裂弾、試みに投擲

12月 新田融に鉄葉小缶を造らしめ

12月31日 幸徳、訪問

1910年1月1日 幸徳方、4人会合

1月23日 古河、幸徳を訪問、幸徳は病気で寝ていた

管野、新村と秋季逆謀の実行協議

1910年3月 幸徳は「且つその躬親(みみずから)ら逆謀実行の任に当るを不利とする念を生じ」湯河原に赴き

1910年3月 幸徳は管野と共に湯河原に赴く

1910年4月 管野は長野県に在る新村に爆裂弾の再試験を勧告

1910年5月1日 管野は帰京、千駄ヶ谷増田方に寓す

1910年5月17日 新村も帰京、管野、新村、古河は管野の寓居に相会し大逆罪実行の部署を議し、抽籤

1910年4月中 宮下は新田に鉄葉缶24個を造らしむ

1910年5月8日 宮下は万一の事あらば古河力作に転送

1910年5月21日 鍛冶工場、汽機室内に隠匿、事発覚

第二

1906年 (大石は久しく社会主義を研究、無政府共産主義を奉じ)上京、幸徳と相識り、爾来交情頗る濃なり。

1906年頃より 成石平四郎は大石の説を聴き所蔵の新聞雑誌、書籍を借覧、自ら購読、無政府共産主義に入り

1906年頃より 高木顕明は社会主義に関する新聞雑誌等を読み大石宅に出入り社会主義者に交りようやくこれに感染

1907年頃より 峰尾節堂は社会主義の書を読み大石と交りて無政府共産主義に入り

1907年4,5月以来 崎久保誓一は大石より社会主義に関する新聞雑誌を借覧、無政府共産主義に帰し

成石勘三郎は弟平四郎の所蔵する社会主義に関する文書を読みて無政府共産主義の趨向にあり。

……

1908年7月 幸徳が新宮町に来訪するや…大石は…成石平四郎、高木、峰尾、崎久保を招集して共に幸徳より当局の圧迫に対する反抗の必要あることを聴き、また大石はその反抗手段について特に幸徳と議する所あり。

1908年11月19日 幸徳宅に於て幸徳が大石及び森近運平に対し赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて富豪を劫掠し、貧民に賑恤し、諸官衙を焼き、当路の顕官を殺し、進んで宮城に迫り大逆を犯すべき決意あることをツ告ぐるや、大石は賛助の意を表し帰国して決死の士を募るべきことを約す。

1908年11月末 大石は帰県の途次京都を経て大阪に出て、武田九平、岡本穎一郎、三浦安太郎等に会見して幸徳の病況を告げ、且つ逆ぼうぎの企図を伝えてその同意を得、帰県の後

1909年1月に至り、成石平四郎、高木、節堂、誓一を自宅に招集して、幸徳と相図りたる逆謀を告げ、これに同意せんことを求む。

成石平四郎等四人は当時既に皇室の存在は無政府共産主義と相容れざるものと信じ、奮て大石の議に同意し、一朝その事あるときは各決死の士となりて参加すべき旨を答えたり。

成石勘三郎薬種商にして、かつ煙火を製造したることもあるを以て、成石平四郎は前示逆謀に使用すべき爆裂弾製造の研究を依頼し、勘三郎はその情を知りてこれを諾し、

1909年4月以来和歌山県東牟婁郡請川村大字耳打の自宅に於てその研究に従事し、まず所蔵の鶏冠石、塩酸加里を調合して紙に包み、熊野川原に於て爆発の効力を試みたれども成功せざりしを以て

7月18日新宮町に往き、当時大石方に客食したる成石平四郎と共にこれを大石に告げ、再試験をなさんがため原料の付与を乞う。

…薬品の調合…の件

成石勘三郎は平四郎、大石、新村を新宮町養老館に招請す。

四人会食して大逆罪の計画談あり

1909年8月…宮下への塩酸加里送付の件

新村の大石方寄食は4月1日より8月20日に至る。

その間、平四郎、高木、峰尾は新村と交りて不敬危激の言を以て逆意を煽動せられ、なかんずく平四郎は忠雄と意気相許し、且つ当時事情ありて厭世の念を生じ、新村と相約して他の同志者の去就を顧みず挺身して大逆罪を遂行せんことを図りたり。然れども平四郎は幾何ならず帰省して疾に罹り、新村も急に帰京したるをもって事遂に止みたり。

第二終わり

第三

1904,5年頃より 松尾卯一太は社会主義を研究

1908年夏以来無政府共産主義に入り幸徳伝次郎と文書を

往復

1908年6月 新美卯一郎は幸徳に書を寄せてその説を叩き、遂に無政府共産主義に帰向するに至る。

1907年6月 熊本市に於て松尾、新美は協力して『熊本評論』を発刊、過激の説を掲載、無政府共産主義を鼓吹する所あり

1908年 赤旗事件起るや新美は事をもって上京幸徳、その他主義者を訪問、赤旗事件の公判を傍聴★「連累者の言動を壮快なりとなし」帰国の後幾何ならずして『熊本評論』は発行禁止の命を受くるに至る。ここに於て松尾、新美は甚だこれを憤慨し、「これ政府が無政府共産主義を圧迫するものなれば、主義を実行せんと欲すれば、暴力に頼りて国家の権力関係を破壊するを要す、大逆も敢えて辞すべきに非ずとの念」を生じ、松尾はしばしばその意を新美に洩せり。

1908年 11月 松尾上京、幸徳を巣鴨に訪問、赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募り、富豪の財を奪い貧民に賑し、諸官街を焼燬し、当路の顕官を殺し、進んで宮城に逼りて大逆罪を犯さんと意志のあることを聴き、これに同意して決死の士を養成すべきことを約し、

1908年12月 熊本市堀端町の自宅に於て新美にその計画を告げ新美はこれに同意したり。

1908年5月頃より、佐々木道元は松尾の勧誘によって社会主義を研究、松尾、坂本等の鼓吹に遭い、無政府共産主義を奉ずるに至り、

1909年1月、松尾が熱烈なる志士養成の必要あるをもって協力事に従うべしと激励するや、道元は頗る感奮する所あり。

1909年3月、飛松は松尾の勧誘により、『平民評論』の編集兼発行人となり松尾、新美の説を聴いて無政府共産主義の傾向を有するに至る。……

第三終わり

判決書 第四

内山愚童

1907年頃より社会主義を研究

1907年6月、赤旗事件の獄起り、…憤慨し

1908年10月、11月赤旗事件入獄記念として、『無政府共産』を秘密出版

「暴慢危劇…不臣の心情掩うべからざるものあり」

1908年8月12日、幸徳は上京の途次、被告愚童を箱根林泉寺に訪い、赤旗事件の報復必要なることを説き、愚童は9月以降しばしば上京し…伝次郎に対し『パンの略取』に記するが如き境遇を実現すべ方法を問い、「総同盟罷工或は交通機関の破壊その他の方法により、権力階級を攻撃するにあり」との説明を得、

1909年1月14日伝次郎を東京府豊多摩郡巣鴨町に訪うや、坂本清馬と共に欧字新聞に載せたる爆裂弾図を借覧し、清馬は「此の如き爆裂弾を造りて当路の顕官を暗殺する要あり」と言い、愚童は不敬の語をもって「皇太子殿下を指斥し、むしろ弑逆を行うべき」旨を放言し、

翌15日管野すがを東京府豊多摩郡淀橋町柏木の寓居に訪い、すがは「若し爆裂弾あらば身命を抛て革命運動に従事すべき」意思あることを告げて同意を求むる状あるを見て、愚童は予すでにダイナマイトを所持せり、革命運動の実用に適せざるべきも、爆裂弾研究の用に資するに足るべしと答え、且つ革命の行わざるべからざる旨を附言せり。

……

1909年1月16日同主義者田中佐市を横浜根岸町に訪い、佐市及び

金子新太郎、吉田只次等に対し、「東京の同志者は政府の迫害を憤慨し、且つ幸徳伝次郎の余命幾何もなき状にあるをもって、近き将来に於て暴力革命を起さんと決心せり。その際大逆を行わんよりはむしろ皇儲を弑するの易くして効果の大なるに若かず、決死の士五十人もあらば事をなすに足らん。伝次郎及び誠之助は已に爆裂弾の研究に着手せり。この地の同志者は一朝東京にに事起らば直ちにこれに応ぜざるべからざる地位にあり、卿等その準備ありや」と説き、その賛同を求めたれども佐市等の同意を得る能わずして去る。……その後4月被告愚童は事をもって越前永平寺に往かんと欲し、途次16日石巻良夫を名古屋市東区白壁町に訪い、「東京の同志者は政府の迫害に苦しみ、幸徳、管野等は暴力革命を起す計画をなし、紀州の大石もまたこれに与り、大阪方面にも3,4の同志ありて大石と連絡成れり。暴力革命には爆裂弾の必要あり、幸徳の宅には外国より爆裂弾の図来り居り、横浜の曙会や紀州の大石等は爆裂弾の研究をなし居り、幸徳、管野は爆裂弾あらば何時にても実行すべしと言い居れり、一朝革命を起せば至尊を弑せんよりは先ず皇儲を害するを可とす、この地の同志者の決意如何」と説き、もってその同意を促したれども、また志を得る能わず。去りて永平寺に赴き用務を了し、帰途更に大阪に出で、

5月21日武田久平を大阪市南区谷町6丁目に訪い、久平及び三浦安太郎に会見し、前掲横浜及び名古屋に於てなしたる勧説の趣旨と同一のことを説き、久平及び安太郎の同意を得、その翌

22日神戸市夢野村快海民病院に行き、岡林寅松、小松丑冶に対してまた同一趣旨の勧説を試みてその同意を得、且つ爆裂弾の製造方法について寅松、丑冶の意見を徴したり。

愚童の項終わり

第五 大阪関連

1908年6,7月 武田九平、無政府共産主義に帰し

1907年6,7月より 岡本穎一郎は森近運平と相交わり無政府共産主義に入り

1907年夏以来 三浦安太郎は無政府共産主義を奉ず。

1907年7月 武田は森近と共同して大阪平民新聞日本平民新聞を発刊、自宅に平民倶楽部を設け

1907年11月3日 森近主催、幸徳の歓迎会、武田、岡本、三浦臨席

1908年9月中 岡本は平民倶楽部茶話会、皇帝少しも尊敬すべき理なし…不敬

1908年11月 武田は内山の送付したる『入獄記念・無政府共産』を岡本、三浦に頒与し

1908年11月下旬 大石大阪に投宿、武田、岡本訪問、三浦遅れて訪問、逆謀を説示され同意

1909年5月21日 内山、武田を訪問、三浦が迎える、武田合流

内山は「幸徳、管野は病、爆裂弾あらば何時にても実行すべしと意あり、幸徳宅には外国より爆裂弾の図到来し、横浜の曙会、紀州の大石等は爆裂弾の研究をなし居り、一ヶ所に5,60人の決死の士あらば事を挙ぐるに足るとの説を聴き、且つ内山が皇儲弑害の策を告ぐるや、三浦は已に主義のため死を決して当地の同志者にその意を漏したる旨言して賛同の意を表し…

第六 神戸関連

1904,5年 岡林寅松は非戦論を是として社会主義に入り後一転して無政府共産主義に帰す。

1904年以来 小松丑冶は社会主義を研究し、1907年に至りて無政府共産主義に入る。

1904年中 岡林、小松は『赤旗』と称する雑誌を発刊せんと図りたるも故ありて中止

1907年11月3日 大阪での幸徳歓迎会に小松出席

1908年11月 岡林、小松『入獄記念・無政府共産』を内山より

収受

1909年5月22日 内山は岡林、小松を神戸に訪問「皇儲弑害の策」を唱え賛同を促す、岡林、小松は難色を示すもこれに同意、爆裂弾の製法を問う、岡林は「リスリンを用いれば可」、小松は「硫酸とリスリンをもって製すべし」と答うるに至りたり。

第七 新田融

第八 新村善兵