1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

シン・チェホ
1880年12月8日<旧暦換算同年11月7日>-
1936年2月21日<旧暦換算同年1月29日>
歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動
アナキズム運動の中心で活動。北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年北京大学の中国人教授、アナキストのリ・シチユン(李石曽)との交際でアナキズムへの理解を深め幸徳秋水に共鳴したという。
キ厶・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
1923年に作成。(朴烈・金子文子の予審調書に資料として全文が翻訳され添付されている)。
独立運動が民衆革命によりなせると判断、
1924年北京で初めて結成された在中国朝鮮アナキズム者連盟の機関誌である『正義公報』に論説を載せアナキズム運動に傾く。1927年、南京で設立され日帝本国からも含めアジア各地域のアナキストが参加した東方無政府主義連盟に加入、
機関誌である『奪還』『東方』にも中心的に関与し文章を掲載。

『奪還』

また幸徳秋水を高く評価し『基督抹殺論』を漢訳、中国のアナキズム雑誌『晨報』に掲載。

刑期を 3年位控えて病気の悪くなったシン・チェホ は1936年 2月21日脳溢血で獄死。

朝鮮革命宣言
『朝鮮革命宣言』表紙

大審院作成日訳全文

<原史料は『朴烈・金子文子裁判記録』大審院所蔵・80年後に翻刻>関連記事「白貞基への弾圧」

「シンチェホ<左端>と同志]


朝鮮革命宣言(訳文)<1925年朴烈公判記録に添付された文献>
一、強盗日本が我国号を無くし政権を奪ひ吾等の生存的必要条件を皆剥奪したり。経済の生命たる山林、川沢、鉄道、鉱山、漁場乃至小工業原料迄悉く奪ひ、一切の生産機能を刃を以て切り、斧を以て絶ち、土地税、


家屋税、人口税、家畜税、百一税其の他各種雑税が逐月増加して血液の有る丈け悉く吸収され、若干の商業家等は日本の製造品を朝鮮人に売買する仲介人となりて漸々資本集中の原則の下に於て滅亡するのみ。大多数人民即ち一般農民は血汗を流して土地を耕作して終年所得を以て家族の口糊を凌ぐ丈けの余裕も出来得ずして、吾等を殺食し居る日本強盗に提供して彼を肥しやる永世の牛馬となるのみか、其の牛馬の生活も許さざるべく日本移民が年々高度の速率を以て増加し、下駄足に踏まれ吾民族は足踏む土地も無くして山に野に西間島に北間島に西伯利亜の荒野に駆逐せられ餓鬼となり流鬼となるのみ。
ソウルの書店の風景


強盗日本が憲兵政治、警察政治を励行して我民族の行動を寸歩も任意に為さしめず、言論、出版、結社、集会の一切の自由を失ひ、苦痛と憤恨に堪えざるも、唖者の腹痛の如く幸福と自由の世界には盲者同様子女には日語を国語とし、日文を国文とする奴隷養成所の学校に収奪し、時に朝鮮歴史を読ませるときには檀君素戔鳴尊の兄弟なりと偽り、

三韓時代漢江以南は原日本の領地なりと称する日本人の作りたる儘を読ましめ、新聞又は雑誌には強盗政治を賛美する日本化奴隷的文字のみ記載しあり、稍々気概ある子弟は環境の圧迫に依り厭世絶望の堕落者になるか又否らざれば陰謀事件の名称の下に監獄に拘留せられ周穿(両股に棒を挟み圧する拷問)、枷鎖(重き板の中央に穴を穿ち其の穴に頭部を入るるもの)及烙刑鞭撻、電気烙針刺、手足を縛して釣り下げる、鼻に注入、生殖器針刺、其の他所有悪刑即ち野蛮専制国の刑罰辞典にもなき刑を受け、僥倖にして獄門を出ずるにしても終身不具廃疾となり、然らざるものにありても発明創作の本能は生活の困難に依り断絶せられ、進取活発の気象は周囲の圧迫に依り消滅せられ、苦情も言ひ得ざる様各方面の束縛、鞭笞駆迫圧制を受け、環海三千里が一個の大監獄となりて、我が民族は全然人類の自覚を失ふのみならず自動的本能をも失ひ、奴隷又は機械となりて強盗の使用品になるのみ。強盗日本が我等の生命を草芥視し、乙巳以後十三道に義兵起るや各地方に日本軍隊の暴行は枚挙する能はず、最近三月一日独立運動以後木原宣川国内各地より北間島、西間島、露領沿海州各州に至る迄居民を屠戮し、村落を焼き払ひ財産を略奪し、
婦女を汚辱せしめ、首を切り、生きたる儘を埋め、火を以て焼殺し或は体は二つ三つに切り離し、児童に悪刑を加へ、婦女の生殖器を破り、出来得る限り惨酷なる手段を用ヰて恐怖と戦慄を以て我が民族を圧迫して人間を生きたる死骸を為さしめつつあり。以上の事実に依りて我等は日本強盗政治即ち異族統治が我朝鮮民族生存上の敵たるを宣言すると同時に、吾等は革命手段を以て敵たる強盗日本を殺伐するを以て正当の手段なるを宣言するものなり。

二、内政独立又は参政権或は自治を運動する奴等は何人なりや。汝等が東洋平和韓国独立保全等を担保する盟約が其の墨痕乾かずして三千里の境土を蚕食せられたる歴史を忘却し居るや。朝鮮人民生命財産自由保護、朝鮮人民幸福増進等が申明したる宣言を為すや、時を移さずして二千万生命の地獄に落ちたる実際の状況を見ざりしや。三月一日運動以後に強盗日本が我等の独立運動を緩和せしむる為
宋秉蔲、閔元植等一二の売国奴を操縦して如斯狂論を称しめたるものなれば、之に附和するものは盲人にあらざれば奸族なり。縦し強盗日本が果して寛大なる度量ありて慨然として是等の要求を許諾するにせよ所謂内政独立を得、各種の利権を取戻すにあらざれば朝鮮民族は一般に餓鬼になるのみならず又参政権を獲得するにせよ自国の無産階級の血液迄搾取する資本主義強盗国の殖民地人民となりて若干奴隷代議士の選出を以て餓死の禍を救ひ得るや。自治を得るにせよ如何なる種類の自治を問はず日本が其の強盗的侵略主義の標的たる帝国なる名称が存在する以上は、其の下に附属せらるる朝鮮人民が自治の虚名を以て民族的生存を維持し得るや。
例令強盗日本が突然仏様の心を以て総督府を撤廃し、各種の利権を吾等に還附し、内政外交我等の自由に任せ、日本の軍隊警察を一時に撤廃し、日本の移住民を

一時に召還して虚名の統治権のみを存在せしむるにしても、我等の過去の記憶が全然消滅するにあらざれば、日本を宗主国として奉戴することは恥辱の名詞を知る人類としては難忍難事なり。日本強盗政治の下に文化運動を称へるもの何人なりや。文化産業と文物、物の発達したる総積を指したる名詞なれば、経済剥奪の制度の下に生存権を奪はれたる民族は其の種族の保全さへ疑問なるに、況や文化発展の可能性ありと云ふべきや。衰亡したる印度族、猶太族は文化ありと雖這は金銭の力を以て其の祖先の宗教的遺業を継続し、其の土地の広大、人口の衆を以て上古の有由発達したる余沢を保守し得たる所以にして、蛇蝎犲狼の如く人血を吸収して骨髄迄も咬まるる強盗日本の口に嵌り込みたる朝鮮の如き地位に於て文化の発展又は種族保守を存し得たる例あるや。
検閲押収所有圧迫中に幾個の新聞雑誌まで文化運動の木鐸と自名し、強盗の心理に反せざる言論位を言唱して是を以て文化発展の過程と見るならば、其の文化発展が却て朝鮮の不幸なりと云ふべし。
以上の理由に依り吾等は吾等の敵たる強盗日本と妥当せんとするもの即ち内政独立自治運動、参政権論者又強盗政治の下に寄生を甘ずる主義を持つもの即ち文化運動者等は何れも我敵なるを宣言す。
三、強盗日本を駆逐すべき主張の内に尚左の如き論者あり。第一は外交論なり。李朝五百年文弱政治が外交を以て護国の長策と認め、
其の末世に最甚しく甲申年以来維新党守旧党の盛衰が殆んど外援の有無に依て決せらるる為政者の政策は、

唯甲国を引いて乙国を制するに過ぎず、其の依頼の習性が一般政治社会に伝染せられ甲午甲辰両戦役に日本が数十万の生命と数億万の財産とを犠牲にして清露両国を排斥し、朝鮮に対して強盗的侵略主義を貫徹せむとするに際し、我朝鮮の祖国を愛し民族を救ふと称する人等は一剣一弾を以て昏庸貪暴なる官吏又は国賊を討つこと能はずして照会文位烈国公使館に寄せ、長書を日本政府に寄せて国勢孤弱を哀訴して国家存亡、民族死活の大問題を外国人又は敵国人の処分のみに仰ぎたり。
而して乙巳年条約庚戌年併合即朝鮮と云ふ国号ありて以来数千年間初めて受くる恥辱に対し、朝鮮民族の憤怒的表示として僅に哈爾賓の銃、鐘峴の剣、山林儒生の義兵あるのみ。嗚呼、過十年の歴史たるや、勇者にして之を見れば唾罵すべく、仁者にして之を見れば傷心するのみ。然るに国亡以後海外に出でたる某々志士等の思想は何よりも外交を以て唯一の能事とし、国内人民の独立運動煽動方法も未来の日米戦争、日露戦争等の機会に来すべしと論ずるもの殆んど多し。最近三月運動に一般人士の平和会議国際聯盟に対する過信の宣伝が却て二千万民衆の奮闘前進の意義を打消したる媒介物たりしのみ。第二は準備論なり。乙巳条約の当時列国公使館に雨の如く降り投げたる紙片を以て例したる国権を扶持する能はず。丁未年の海牙密使も独立恢復の福音を齎すこと能はずして段々外交に対する疑問発生し戦争するに不如と判断せられたり。
然れども軍人もなし武品もなし、何を以て戦争を為すや。山林儒生等は春秋大義には成敗を計らずして義兵を募集し、大冠大衣を以て指揮の大将と為り、狩猟者の火縄銃隊を集めて朝鮮日本戦争の戦闘線に立つことになりたるも、稍新智識ありて新聞位読み

時勢を斟酌すると云ふもの等は戦闘する勇気もなく、今日では日本と戦争すると云ふ事は妄動なれば、銃器も製造し、資金も調達し、大砲も求め、将官及士卒となるべき人物を養成したる後にあらざれば日本と戦端を開く能はずと主張せり。是即ち所謂準備論者にして戦争を準備すると云ふ派に属す。外勢の侵入加はるに伴ひ吾等の不足を一層に感覚せられ、準備論の範囲が戦争以外迄拡張せられ、教育の振興及商工業の発展は勿論、其の他部分迄準備すべき論に及べり。庚戌年以後各志士等が或は西北間島森林を辿り或は西伯利亜の寒風に晒され或は南北京方面に徘徊し或は米州布哇に渡り或は京郷に出没して十余里星霜内外外地に於て喉が裂くる迄準備論を唱へたり。然れども彼等の勢力の不足にあらずして実は其の主張を誤りたるものなり。強盗日本が政治経済両方面を以て攻め来り、経済が日々困難に陥り、生産機関は全部剥奪せられ、衣食の方策を断絶せられたる場合に際し、何を以て実業を発展し教育を拡張し、就中、何所に於て幾何の軍人を養成し得るや。養成せむとするも日本戦闘力の百分の一をも比較するを得べきや。実に一場の寝言にすぎず。以上の理由に依り吾等は外交論、準備論者羅の迷夢を捨てて民衆直接革命の手段を取るべきことを宣言する所以なり。

四、朝鮮民族の生存を維持せむとするには強盗日本を駆逐すべく、強盗日本を駆逐するには革命を以てするのみなり。革命にあらざれば強盗日本を駆逐する方法なかるべし。而し我等が革命に従事せむとすれば如何なる方面より着手すべきや。旧時代の革命を以て論ずれば人民は国家の奴隷となりて、夫れ以上に人民を支配する上典即ち特殊勢力の名称変更するに過ぎず。換言すれば、乙の特殊勢力を変更するにすぎざりしものなり。夫れ故人民は革命に対して唯甲乙両勢力即新旧両上典の何れが仁にして何れが暴なりや、又何れが善にして何れが悪なりやを見て其の向背を定めるのみにして直接の関係は殆んど無かりし。
故に其の君主を誅して其の人民を愛撫するを以て唯一革命の宗旨とし、箪食壷漿を以て王師を迎へるが民衆革命の唯一の美談となりしも、今日の革命を以て論ずれば、民衆が民衆自己の為になす革命なるを以て民衆革命又は直接革命なりと称す。民衆直接の革命なるが故に其の沸騰膨張の熱度が数字上の強弱を比較する観念を打破し、尚其の結果の勝敗が常に戦争学上の定軌を逸出して無銭無兵の民衆を以て百万の軍隊、億万の富力を有する帝王も打斃し、外寇を駆逐す。依て吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。民衆よ覚悟せよと熱叫する声に依りて覚悟するにあらず。

唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。一般民衆が饑寒困苦に迫まり、納税の督促、私債の催促、行動の不自由と所有圧迫に依り生きむとしても生き得ず、死むとしても死する能はざる境遇に於て、其の圧迫の主因たる強盗政治の施設者を打倒し、強盗一切の施設を破壊して福音が四海に伝はり、万衆同情の涙を振つて人々が其の餓死以外に革命と云ふ一路が開かれたるを覚り、勇者は其の義憤に堪えず、弱者は其の苦痛に堪えずして皆此の道に集注して継続的に進行し、普遍的に宣伝して挙国一致の大革命となれば、奸猾残暴なる強盗日本が畢竟駆逐さるべし。 
夫れ故吾等の民衆を喚醒して強盗の統治を打倒し、吾が民族の新生命を開始せむとするには十万の兵を養成するより一擲の爆弾を要し、億千枚の新聞雑誌が一回の暴動に不如。民衆の暴力的革命が発生せざれば兎も角一旦発生したる以上は恰も懸崖より転下する岩石の如く目的地に到達せざれば停止することなし。
吾等己往の経過を以て見れば甲申政変は特殊勢力が他の特殊勢力と衝突する宮中一時の活劇にして、庚戌前後の義兵等は忠君愛国の大義の下に激起したる読書階級の思想なり。安重根、李在明等烈士の暴力的行動は熱烈なれども、後面に民衆的暴力の基礎力なく三月一日運動の万才の声に民衆的一致の意義が瞥現せられたるも是又暴力的中心を有せざりしものなり。民衆的暴力両者の中、其の一を欠けば如何なる轟然壮快の挙動なりと雖、雷電の如く終息さるるを免れず、朝鮮内に強盗日本の製造したる革命原因が山の如く積もれり。何時にても民衆の暴力的革命が開始せられ、独立せざれば生存せず、日本を駆逐するにあらざれば退かずとの口号を以て

継続前進しなば目的を貫徹すべし。是は警察の剣、軍隊の銃又は奸猾なる政治家の手段を以て防止し得べきものにあらず、革命の記録は必ず惨絶壮絶なる記録となるべし。然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面には光明の活路あり。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、破壊、暴動の目的を大略挙ぐれば、
一、朝鮮総督及各官公吏
 二、日本天皇及各官公吏
 三、探偵奴、売国
 四、敵の一切施設物
此の外地方の紳士又は富豪にして特に革命運動を妨害したる罪跡なきも、若言動を以て我等の運動を緩和し或は中傷するものは吾等の暴力を以て衝るべし。日本人移住民は日本強盗政治の機械として朝鮮民族の生存を威脅する先鋒たるを以て是又吾等の暴力を以て駆逐すべし。

五、革命の道は破壊より開拓すべし。然れども破壊の為に破壊するに非ず、建設するが為破壊するものなり。若建設を知らざれば破壊する道も知らず、破壊するを知らざれば建設する道も知る理なし。 建設と破壊と形式上に於て区別あるのみにして、精神上に於ては破壊即建設なり。之を論ずれば吾等日本勢力を破壊せむとする目的は 第一異民族統治を破壊するなり。如何となれば、朝鮮と云ふ上に 日本と云ふ異民族其のものが専政を行ひ、異民族専政の下に居る朝鮮は固有的朝鮮にあらざるを以て固有的朝鮮を発見する為異民族統治を破壊するものなり。
第二は特権階級を破壊するにあり。何となれば、朝鮮民衆の上に総督だの何だと云ふ強盗団の特権階級が圧迫し居れり。特権階級の圧迫の下に居る朝鮮民衆は自由的朝鮮民衆にあらざるを以て自由的朝鮮民衆を発見する為特権階級を打破すものなり。
第三は経済掠奪制度を破壊するにあり。何となれば、掠奪制度の下にある経済は民衆自己の 生活の為に組織したる経済にあらずして、民衆を殺食する強盗を肥やす為組織したる経済なれば、民衆生活を発展せしむる為経済掠奪制度を破壊する所以なり。
第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の上に貴者あつて所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会となりて初めには少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆全体の幸福が数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊するものなり。
第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫理、文学、美術、風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。

一般民衆を奴隷化せしむる麻酔剤にあらざるや。少数の階級は強者と為り、多数の民衆は却て弱者と為りて不義の圧制に反抗し得ざれば、専ら奴隷的文化思想の束縛を受けたる所以なり。
若民衆的文化を提唱して其の束縛の鉄鎖を解くにあらざれば一般民衆の権理思想の薄弱となり、自由向上の興味が欠乏して奴隷の運命中に輪廻するのみ。故に民衆文化を提唱する為奴隷的文化思想を破壊する所以なり。換言すれば、固有的朝鮮を建設する為異族統治の略奪制度の社会的不平均の奴隷的文化思想の現象を打破するものなり。然らば破壊的の精神が即建設的主張なり、進めば破壊の剣となり、入れば建設の畑と為る。破壊する気魄なく建設する妄想のみあれば五百年を経過しても革命の夢も結ぶ能はず。茲に破壊と建設とが一にして一にあらざるを知るに於ては民衆的破壊の前には必ず民衆的建設あるを知るべし。現在朝鮮民衆は民衆的暴力のみを以て新朝鮮建設の障碍なる強盗日本勢力を破壊せざるべからざるを知り、朝鮮民衆が一団と為り、日本強盗が一団となりて彼が亡ぶにあらざれば我亡ぶべき一本橋上に行き会ひたるを知るならば、我二千万民衆は一致して暴力破壊の道に猛進すべし。
宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我が革命唯一の武器なり。吾民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾生活に不合理なる一切の制度を改造して人類を圧迫すべからず。社会を以て社会を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。
四千二百五十六年一月 日
               義烈団



朝鮮総督府所属官公吏に
朝鮮総督府所属官公吏諸君、強盗日本の総督政治下に寄生する所の官公吏諸君、諸君は諸君の祖先より子孫に至る迄動かすべからざる朝鮮民族の一分子にあらざるか。若朝鮮民族の一分子なりとせば、仮令口腹と妻子との為強盗日本に奴隷的官公吏生涯の為すと雖、強盗日本の総督政治が我が民族の仇敵なるを知るべく、従て吾等の革命運動は即強盗日本の総督政治を破壊し朝鮮民族を救済せむとする運動なるを知るべし。之を知つたならば吾々の革命運動を妨害せざるべきをも信ず。然も尚之に妨害するものありとせば我々は斯る徒輩の生命を容赦せざるべし。
    四千二百五十六年一月 日
               義烈団

韓国映画アナキストたち」
二〇〇〇年五月はじめ、ソウルの中心街の映画館で韓国の若いアナキストたちと共にみた。

封切りは四月二九日。韓国語はわからないままアクション映画としての側面を楽しんだ。

映画館は満員。日帝の軍人が攻撃されるたびに観客席はどよめいた。

その数日前、一九二〇年代の著名なアナキスト友堂(イ・フェヨン)記念館にある国民文化研究所を訪ねたおり、この映画「アナキストたち」が話題となった。

新聞でも大きく話題になり、国民文化研究所のイ・ムンチャンさんたちも監修を頼まれたということであった。

しかし義烈団をそのままアナキストたちと重ねたタイトルには批判的であった。

七〇代、四〇代、一〇代のソウルのアナキストたち皆同意見であった。

二〇〇二年二月、韓国語版のビデオを送ってもらい再び見た。

二〇〇五年春、渋谷を皮切りとした韓流映画祭での限定的な劇場公開を契機としてDVDが発売された。

日本公開でのタイトルは「アナーキスト」。

(原題ハングルは複数形とのこと、また英文でも「ANARCHISTS」と複数形でハングルタイトルの下に付されている)。

監督はユ・ヨンシク、脚本はパク・チャヌク、「JSA」「オールドボーイ」も手がける。

真っ先に注文、日本語字幕、あるいは吹替えでようやく見ることができるようになった。五年越しで史実に基づいた部分も把握できた。

物語はキム・ウォンボンが一九一九年、当時の「満州」で組織した抗日武装組織「義烈団」の活動を描く。しかし娯楽アクション映画でもあり、主人公たちの恋愛も描かれ、巨額の活動資金の行方やアヘン吸引という波乱要素が組み込まれる。

映画で活躍するのはモスクワ大留学経験の虚無主義者セルゲイ(チャン・ドンゴン)、

朝鮮王家の末裔、ロマンチックなヒューマニスト

詩人でトルストイを崇拝するイ・グン(チョン・ジュンホ)、

マルクスレーニンから理念の洗礼を受けた冷静な革命家ハン・ミョンゴン(キム・サンジュン)、

小作人出身の過激な行動主義者トルソク(イ・ボムス)、

少年、サング(キム・イングォン)。

いずれも実在はしないキャラクター設定である。

セルゲイの恋人、カネ子(イェ・ジウォン)は母親が朝鮮人という設定で義烈団へ同情し、アナキズムの本も読む。

しかし時代背景はリアルに描かれ、実在した人物たち、独立運動の著名人、イ・ドンヒ(李東輝)、シン・チェホ、キム・ウォンボン(金元鳳)、キム・グ(金九)の名が出される。 

初の韓中合弁で作られ、六〇万坪の敷地に建設された上海スタジオと近隣都市でのロケが生かされ、一九二〇年代の上海を再現したという。中国人エキストラも動員、三ヶ月の製作期間。

映像は一九四八年、冒頭、ラジオ放送「政府樹立一周年の今日イ・スンマン大統領閣下は……」

「金九まで暗殺して政府を名乗るとは」……「私は死ぬべき時に死ぬことができず……」とサングの回想。

セピア色の二〇年代上海から人々が動き出す。一九二四年の上海。旭日旗と絞首ロープが象徴的にアップされる。両親を日帝に殺されたサングは日本人住区に放火するという復讐行為により逮捕、公開処刑されようとしていた。

日帝軍人のカトウ「我等大日本帝国に抵抗することがどれほど無意味か理解し…」。

街の中、処刑台の周辺に爆弾が投げられ日帝の官憲が撃たれる。

サングは義烈団のメンバーとなる。

「義烈団はなぜ黒を着るのか?」

社会主義(共産主義という表現を避けているのか)の色が赤ならアナキズムは黒」

「白衣の民族朝鮮の没落を反省するため」というアナキストが黒というイメージを語らせる。

セルゲイも「俺は黒が好きだから」と発言。皆は記念写真を撮りに行く。

サングは写真館の少女リンリンに惹かれる。

サングはトルソクから「義烈団の革命宣言を言ってみろ」と問われる。

上海の街を揃って歩くシーンにかぶらせて革命宣言が激しい口調で発せられる。

「民衆は革命の大本営」「暴力は革命の唯一の武器だ」

「我々は民衆に分け入り絶えざる暴力暗殺で強盗日本の統治を打倒せん」

「我等は不合理な一切の制度を改造し人類が人類を圧迫するを為し得ず社会が社会を収奪するを為し得ない理想の朝鮮を建設する」 

朴烈の大審院公判調書に添付されている翻訳された「宣言」と比較する。訳文の差があるだけで内容は同一である。

「朝鮮革命宣言」はシン・チェホの起草した文である。

「宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我革命唯一の武器なり。吾等は民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾等生活に不合理なる一切の制度を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。」

映画では引用されない他の部分を紹介する。民衆の自立した意識による革命をめざすということである。

「今日の革命を以つて論ずれば、民衆が民衆自己の為に為す革命なるを以つて民衆革命又は直接革命なりと称す。」

「……吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。」

「換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。」

「……暴力、暗殺、破壊、暴動の目的物を大略挙ぐれば、一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切の施設物」

セルゲイは不明な死を遂げる。葬儀の場面。「日本人は関東大震災で六千人を超す同胞を無残に殺しました」と語られる。

アジトでは方針をめぐって論議が起きる。トルソクが「俺に朝鮮総督天皇をやらせてください 俺が息の根を止めてやる」と幹部に迫る。トルソクは「革命宣言」を履行しようとの発言であった。

港のシーン。幹部は「義烈団は左翼の拠点である広州に活動を移す」

「我々は今後組織化された大規模な蜂起を目標にする」

「諸君も社会主義(共産主義と読み替えるべき)革命家として生まれ変わってほしい」。

それに対して「我々はアナキストです社会主義(共産主義)は独裁だ」

「無政府共産の理想社会実現」。

幹部は「しかし個人テロにはもう望みがないことを知るべきだ」

「例え天皇を殺しても息子に代わる」。

幹部は(君等は)「自由の身だ」(しかし)

「義烈団を名乗ることは許さん」と発言。

黄昏時、イ・グンが上海港の沖合いを見つめながらサングに語る。

アナーキーの語源を知っているか」

ギリシャ語でアナルキアあるいはアナルコス」

「船長をなくした船乗りたち」。 

日本の軍人、高級官僚が乗船する船を攻撃する計画がたてられる。船内では日の丸を背景に日帝軍人が撃たれる。しかし反撃され、ハン・ミョンゴン、イ・グン二人の義烈団員は殺される。 

再びサングの回想。出獄してくると祖国は解放されていた。

「キム団長は共産主義者として拷問される。」

「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」。エンディング。

現実の「義烈団」はどうであったか。

希少な文献の翻訳、『金若山と義烈団』(朴泰遠著、四七年ソウル刊、金容権訳、皓星社、八〇年八月)により上海での活動、一九二四年の動きを探ってみる。

一九一九年にキム・ウォンボンが二一歳で義烈団を創設したとき同志は総勢一三名。

二五年まで数百の事件、数千人が関わっていたという。

爆弾製造の熟練者ハンガリー人マザールの存在も記述されているが、映画でも冒頭、アジトで紹介されている。「彼はマジャール。武器を調達してくれる」。

同書で上海の活動が記されているのは上海黄浦灘事件、一九二二年三月の陸軍大将田中義一暗殺未遂事件だけである。

(梶村は『義烈団と金元鳳』一九八〇年、著作集収載、において二三年九月の「上海爆弾押収事件・五〇個」を記している)。

田中が上海に立寄るのを知ったキム・ウォンボンは上海に滞留しているすべての同志を一堂に集めた。そして三名を選び、拳銃と爆弾を用意する。

船から降りた直後に狙撃するが失敗してしまう。

二四年の大きな行動は一月五日の東京における二重橋爆弾事件、金祉變が二重橋まで至り爆弾三発を投げるも二発は不発、一発は爆発するが威力は小さかった。

無期懲役の判決を受けるが二八年二月、獄中で突然死。

刑務所は脳溢血と発表、四四歳であった。朝鮮総督府の丸山警務局長によると義烈団の中核団員は二、三〇名。(梶村は官憲資料から二四年当時は七〇名程度と記述)。

しかし団員がそれぞれ別の名の団体を組織し二、三百名が活動していたという。スバイ対策もあり幹部団員以外は自分が義烈団員であるかないかもわからないという仕組みになっていた。

二三年三月、二四年一月と多くの同志が検挙、二五年三月には団内のスパイを処刑と記述。

そして二五年、一部の同志の反対はあったがキム・ウォンボンは従来の少人数単位の武装闘争路線を放棄し、組織的な軍事を学ぶことを提起する。本人自ら偽名で黄浦軍官学校に入学、軍隊組織を学ぶ。

その後の義烈団は梶村の論文によると「二八年一一月、朝鮮義烈団中央執行委員会の名で協同戦線論をふまえ『創立九周年を記念しながら』を発表、共産主義者の指導組織との連携を強調し、ボルシェビズムの側により接近」「二九年か三〇年にキム・ウォンボンは朝鮮共産党を除名になった安光泉と朝鮮共産党再建同盟をつくる」としている。

キム・ウォンボンは抗日闘争を貫いた後、引き続き共産主義に同調、朝鮮民主主義共和国建国過程に参与、五七年最高人民会議常任委員会副委員長に選任、五八年引退以降の消息は不明。

路線変更に反対した一人、アナキストの柳子明は二一年に義烈団に加わり、文案の起草や整理にも関与したという。(『人名事典』では立項されているが二一年加盟や路線反対には触れていない)。

韓国内での公開当時の評価を紹介する。

アナキストとは? 船長のいない船のクルーの群れ、という語源のギリシャ語アナキアから出たアナキスト無政府主義者を意味する。彼らの思想の『アナキズム』は民族主義でも共産主義でもない第三の思想であり、権力のない支配されない社会建設を主唱し、テロ活動に力を注いだのが最も大きな特徴だ。」

この認識は義烈団とアナキストたちを同一視している。

アナキスト(無政府主義者)は現実感のない耳慣れない単語中のひとつだ。半世紀を越す冷戦体制が支配している分断国家で、彼らが足を付けられる土地は事実上なかった。」

「新鋭ユ・ヨンシク監督がメガホンを持った映画『アナキスト』は植民地からの解放以後、韓国・北朝鮮の理念対立の構図の中で忘れられつつある一九二〇年代のアナキストの生を扱った点から『歴史の復元』という、意味ある作業をなし遂げた。」

「上海、黒いコートを着て中折帽を押さえて青年らが歩んでくる。顔には虚無と憂いが現れている。眼差しは鋭い、彼らを覆った空気は尋常でない。死を覚悟したように悲壮だ。」「映画 『アナキスト』はアナキストのキャラクターをこのように浪漫的に描いた。革命のためにならば愛も命も捨てるテロリスト。アナキズムの専門家である東国大の教授(哲学)は映画『アナキスト』に対して『アナキストのキャラクターを歪曲しているにもかかわらずアナキズムを下位文化・抵抗文化・反文化の表象に浮上させるのに一助となった』と話す」と続けてエマ・ゴールドマンの本も紹介される。「アナキズムは保守陣営からはもちろん進歩陣営にも疎外されてきた」「『Anarchism and Other Essays』が原題であるこの本が韓国語訳で 『呪われたアナキズム』と題されて刊行。著者であるエマ・ゴールドマン(一八六九〜一九四〇)は二〇世紀の代表的アナキスト。ロシア出生で米国に移住した後、アナキズム運動を展開する。投獄され市民権まで剥奪された女性だ。一九一〇年に刊行したこの本は難解なアナキズムの概念を比較的明瞭に叙述したアナキズム入門書だ。」

「民族陣営と共産主義者、そしてアナキストが共存した。この内のアナキストらは、暴力とテロを通じて日本帝国に真正面から対抗した歴史の中に実存した。彼らは日帝の力がおよばなかった中国の上海のフランス租界を根拠地にして一九二〇年代初めに 三〇〇余件のテロを敢行した。」「映画『アナキスト』はニム・ウェイルズの『アリラン』などを土台に、五名のアナキストを架空に作り出した。」

抗日武装闘争は「テロ」なのであろうか? さらにアナキズムと「テロ」を短絡的に結びつけられてしまう。後に明確なアナキズムの立場にたつシン・チェホが義烈団の綱領といえる「朝鮮革命宣言」を起草したこと、柳子明という優れたアナキストが主要団員として存在していた事実はあるが、義烈団をアナキストアナキズム二重写しにするのは無理がある。キム・ウォンボンは創設者であり象徴として義烈団を統括していた。そのキム・ウォンボンは強固な民族主義から共産主義に同調していった。

当初は、梶村が次に分析しているような組織性であったのだろう。「…アナキズム・ボルシェビズムと接する機会はしばしばあったはずだが、そのいずれかに分化しきってしまうことを敢えて避ける姿勢をとっていたといえよう。…また、よくまちがえられているが、アナキズムとの関係も同様であった。…自覚的なアナキスト団体とは別個であり、義烈団がこれと合体したような形跡はない。」著名なアナキストの参加は他にない。

映画は「義烈団」全体の活動を描いていない。二四年の上海に焦点をあてた。義烈団の動向をこう理解しよう。朝鮮本国での前年までの活動がキム・ウォンボンの義烈団としてはピークであった。失敗と弾圧による主要活動家の逮捕、スパイの存在、義烈団の存続が問われていた。関東大震災における六千人以上の朝鮮人の虐殺に対する天皇日帝への報復行動、二四年一月の金祉變の闘争も実質は失敗であった。二四年の義烈団、キム・ウォンボンは苦悩していた。

映画は「義烈団」の中の一グループを描き、構成する団員の思想を図式的に分けている。

虚無主義者セルゲイ、トルストイを崇拝するイ・グン、共産主義の影響を受けたハン・ミョンゴン、過激な行動主義者トルソク、最年少で思想的には白紙で未来があるサング。

前述した「我々はアナキストです。社会主義(共産主義)は独裁だ」「無政府共産の理想社会を実現させたいのです」をイ・グンに語らせている。

またイ・グンがサングにアナキズムの語源を説明するシーンがある。

これはイ・グンにアナキストを象徴させ、なおかつサングに伝えるという表現であろう。

義烈団内の個々のグループは解散をするがハン・ミョンゴンをリーダー格としたこの一グループは皆最後まで行動を共にしようとする。

ハン・ミョンゴンは本来、キム・ウォンボンの「組織的な蜂起」路線に同調したかったが、自身の病(肺結核か?)で先がないことを自覚し最後の闘いに赴く。

虚無主義者セルゲイは早い段階で死を迎えている。

行動主義者トルソクは乗船する前に警備の官憲をひきつけ銃撃で死す。

イ・グンは「無政府共産の理想社会を実現させたい」と信念を持ち、その目的遂行のため武装行動に起つ。イ・グンとハン・ミョンゴンは日帝の軍人に銃撃され倒される。そして手を伸ばし、つながり死ぬ。

ラストシーンもサングの回想であり、「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」という「語り」でとじられる。

これはイ・スンマンの暗殺に向かうという暗示である。

現実にはイ・スンマンは四八年以降も生き続けるわけであるから、サングの行為は未遂か失敗に終わるということは見る方は認識してしまう。

解放後も生き残ったサングが選ぶべき思想は「義烈団」綱領ではなくイ・グンの「理想」とするアナキズムなのではないか。

再びの暗殺行動を示唆するまま終わっては、上海港においてイ・グンがサングに「アナキズム」の語源を伝えたシーンは無になってしまう。

梶村秀樹がシン・チェホ(申采浩)に触れた論文を遺している。 
「かれの写真を眺めていると、ふと中国の魯迅と日本の夏目漱石と朝鮮の申采浩という連想が浮んだ。……三人とも、ほぼ同じ世代の、状況と自己から目を離さなかった、ほんものの知識人である。

小さい画像が夏目漱石
……人間的・思想的対比としてそれほど突飛でないような気がしている。いずれにしても、ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていないというべきではないだろうか?」

『申采浩の啓蒙思想』≪季刊三千里≫第九号掲載1977年春
(アップ時の訂正×『近代朝鮮史学史論ノート』2008年4月10日)

 また他の論文でも
「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人のなかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然ではないだろう」と評価されていることに言及している。『申采浩の歴史学』≪思想≫誌掲載1969年 
 シン・チェホの著作は歴史書一冊と短編小説、いくつかの詩の日本語への翻訳はあるが梶村の40年近く前の指摘、「ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合いに、申采浩は日本では読まれていない」という状況は今も変わっていない。
和訳は『朝鮮上古史』『竜と竜の大激戦』。
シン・チェホを論じた文献「申采浩の啓蒙思想梶村秀樹、「恨と抵抗に生きる、申采浩の思想」「申采浩と民衆文学」金学鉉、「朝鮮革命宣言と申采浩」高峻石

 一方、韓国では1970年代に著作が『丹斎申采浩全集』としてまとめられ改定を重ね
三巻にまとめられている。近年は朝鮮史に関する論文だけがクローズアップされナショナリズムを語る文脈の中でたびたび引用をされる。
またキム・ウォンボン(金元鳳)が率いていた義烈団の宣言である「朝鮮革命宣言」を
依頼され1923年に作成している。翻訳が複数ある。
日帝に対する非妥協的な闘争の意思が強かったシン・チェホは義烈団キム・ウォンボンの要請に答え「宣言」を起草した。臨時政府イ・スンマンの腐敗への批判は強かった。  



参考<サイバー・シンチェホ>http://www.danjae.or.kr/