[アナキズム運動史]1925年1月20日 後藤謙太郎の死

1「一月二十二日の日も暮れたときである。私が運動社の近くの露地まで帰ると、医師奥山伸先生の懐中電灯の案内で、村木が担架で社へ運びこまれるところであった。 …病床には、

延島英一君母子、岡本文弥、村木が横浜で牛乳配達のころから世話になり懇意にしていた土屋家の人たち、江口渙氏などが付き添ってくれていたが、翌々日午後意識が回復しない

ままに死んだ。一月二十四日で、幸徳たち大逆事件の記念日だったのである。村木がたったいま息をひきとったばかりの、ちょうどそのとき、労働運動社へ年配の一婦人の訪問客があ

った。

玄関へ座るなり、<うちの謙太郎はどこにいるでしょう?> ……

軍隊宣伝事件で巣鴨刑務所へ入獄中の後藤謙太郎君のお母さんで、刑務所からの謙太郎死去の電報によって、九州熊本からはるばる上京、 ……

私たちは後藤君の死をはじめて知ったのであったが、 ……  

村木の方には私たちがあたり、後藤君の方のいっさいは江口渙たちにしてもらった。後藤君は前いったように軍隊への宣伝事件で捕えられて懲役一年に処せられ、その年

の七月に出獄する筈であったが、それを待たず監房で縊死したのであった。」 近藤憲二。(『私の見た日本アナキズム運動史』1969年6月刊、平凡社)

2 後籐謙太郎の解剖は実際にあったのか 後籐謙太郎の死因を追及するため、解剖があったという経過は直後の機関誌紙にはまったく書かれていなかった。しかし、3年後に出版され

た『反逆者の牢獄手記』に記述があった。

<後藤謙太郎> 

詩 『反逆者の牢獄手記』 1928年6月発行、行動者出版部

「熊本の人、酒を好み、愛犬を友に、全国を宣伝行脚した人、放浪詩人とも云われ、多くの詩を作った。大正 11年の軍隊宣伝で下獄、大正14年1月20日巣鴨服役中自殺した。在京の同

志に知らせられず、獄吏の手で共同墓地に埋められた事を不審とし、掘り起こして慶應病院で解剖して見たが、やはり自殺であった。大阪では同君の『労働、監獄、放浪の歌』が出版

されている。」

3  後藤の遺書 『労働運動』紙8号(1925年2月刊)、

<労運社から>に近藤憲二が後藤の遺書を掲載している。江口が「彼と彼の内臓」で記述している後藤の遺書も、初出誌『改造』ではそのまま引用され、伏字[ ×の記号化]の部分も

ほぼ踏襲されていることが確認できた。

しかし「無政府主義者としての死に方」が「社会革命家としての死に方」と、「伏字」部が「自選作品集」では恣意的に復元されてしまっていた。

「 ■…後藤君の遺書だけを発表して置く。

■『……は戦って来たが、如何せん持って生まれた病気には何うしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えないの

だ。無政府主義者としての死に方が決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失われなければならぬ病気のことを思えば、僕は遂に自決の道を

撰ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ、兎も角も僕は逝く』

■之は遺書の全部ではない。この前文が数十行あつたのだが、獄吏のために奪われて永久に葬り去られた。

■両君の死に際していろいろ、お骨折下さった諸君、殊に布施・山崎両弁護士、奥山・馬島両医師、及び両君のために態々弔意を表された多くの同志諸君に対し、僕達は茲に心から

の感謝を捧げるものである。 [憲]」

<彼と彼の内蔵> 初出誌『改造』 1927年5月号

「 …………ヽヽヽヽ来たが、如何せん持って生まれて来た病気には何しても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕は堪えな

いのだ。 ×××××ヽヽヽヽヽヽヽヽ決して斯ういうものでないこと丈は僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕は遂に自決の道を選ぶ

よりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕は逝く」

<彼と彼の内臓>『江口渙自選作品集』

「 ……僕は戦って来たが、いかんせん持って生まれてきた病気にはどうしても打ち克ち難い。一昨年の怖ろしい発作を思うにつけて、今また再発せんとする兆候を正視するに僕はたえ

ないのだ。社会革命家としての死に方が、決してこういうものでないことだけは僕も充分に知っている。だが、やがては理性も失わなければならぬ病気の事を思えば、僕はついに自決

の道を選ぶよりほかに致し方がなかったのだ。諸君よ。兎も角も僕はゆく。 …」


4 金子文子も後藤と村木の死を語っていた。  

金子の獄中からの手紙が『婦人サロン』 1931年4月号に掲載されている。

「女死刑囚の手紙 金子文氏より某氏への獄中通信」。おそらく栗原一男宛の手紙であろう。栗原は、真友聯盟デッチ上げ治安維持法弾圧で実刑判決であった。朝鮮での 3年の監獄

生活から解放され東京に戻ってから自身宛の手紙を公開したのではないか。雑誌 14頁にわたるテキスト量である。

<四月の或る日に>金子文子

「<達者でいてくれ、同志はみんな達者だ !>とばかり云わないで、凶いこともたまには知らしておくれ!差し入れまでしてくれた、そして堅実な有望な同志、生粋な妾達の仲間が、二人

まで獄死しているじゃないの ?……  生前に会った同志G兄のガツチリした態度や、顔立ちや、××××に載っていた詩などを思い合わせては、何とも言われぬ悲痛な気がする。惜し

かった、本当に惜しかった、その辺の所謂気取り屋さんとは違って、あの人は不穏ビラくらいで、命を落とす人でなかった。 ……」 金子自身、1926年7月に獄死するが、関東大震災直後

から「保護検束」「治警法」「爆取」「大逆罪」と予審、大審院での裁判時も含めて、 3年近くの獄中生活であった。その間獄死しているのは、村木源次郎と後藤謙太郎だけである。Gとい

うイニシャル、詩、不穏ビラ、と後藤を暗示させる鍵言葉が並んでいる。中浜哲は朴烈を知っていた。中浜は後藤も自分のグループに誘っていたので中浜を通じて朴、金子も出会ってい

ておかしくはないのである。

5 上野克己も後藤に触れている。  

<社会運動雑話「あの時分を」批判的に語る>

…後藤謙太郎は余りにも激情家で、その言動は時に狂的であり、ある時など尾行刑事を刺し精神病院に収容された事もあった様だ。後に軍隊宣伝事件で巣鴨刑務所に服役中、獄窓

で縊れ死んだ。「彼と二つの心臓」とか題で江口渙が「改造」か「中央公論」に物した創作は後藤と村木源次郎の死をモデルにしたものだったが、それ等は後の話。古田や中浜が謀議

の後暫くして後藤は病床に臥す身となり、後年のギロチン社一味との関係は断たれた。

…『民衆の解放』1933年12月28日

6 <番外>後藤の二冊目の著作は刊行されたのか?

『祖国と自由』 3巻1号<文明批評社1927年9月刊>の広告欄に掲載されている。 「改訂増補 労働・放浪・監獄より 故後藤謙太郎 最近刊 一冊五十銭 総クロース二百頁 発行所

 東京市外上目黒駒場七八三 解放新聞社」

これが全てである。編集記には『労働・放浪・監獄より』が発禁になり在庫もない、また載せられなかつた作品もあるので解放新聞社より刊行、当社でも扱う、と記されている。 最近刊

が実際に刊行されていたとすれば、増補といえども二冊めの著作となる。

実際に後藤の『労働・放浪・監獄より』文明批評社刊には未収録の作品は多くある。