2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧

1924年3月30日。中濱鉄が弾圧、逮捕される 

爆弾入手資金確保のため、大阪に戻った中濱は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた。

1926年3月29日『大阪朝日新聞』に金子文子・朴烈の獄中生活記事が載る。

〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁とい…

1923年3月28日。大杉栄、フランスからの書簡

林倭衛宛「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の10日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする」 伊藤野枝宛「すぐドイ…

1926年3月26日。飯田徳太郎、母親、不逞社の同志、市ヶ谷刑務所に朴烈、金子文子に面会に行く  

「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日、三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は…

旅順監獄で獄死したアン・ジュングン、シン・チェホ、二人の朝鮮人革命家と幸徳秋水、夏目漱石

【関連ブログ内リンク「シンチェホ」「白貞基に関する記事。『自由聯合新聞』」「韓国映画<アナキストたち>」】旅順監獄で斃れた朝鮮の革命家アン・ジュングンとシン・チェホ ──彼らと幸徳秋水、夏目漱石──昨年一一月、筆者はソウルにて開かれた「又観先生…

こちらはAML投稿版の続き

『朝鮮日報』はかつての旅順監獄跡に独房が遺され アン・ジュングンの遺品が保存、展示されているこ とを詳細に報告している。また「事件」の現場のハ ルピンからの報告では 「ハルビン市安升街にある朝鮮民族芸術館の1階には、 06年7月にオープンした安重根…

1926年3月25日。金子文子・朴烈への大審院有罪判決、死刑。

……被告朴準植は日韓併合の真相を解せず被告金子文子は矯激なる偏見に囚はれ肯謀りて畏くも 皇室に対する大逆事犯を企画し因て以て光輝ある我国史に一大汚点を印したる其の罪責は極めて重きものと謂はざるべからず法律に照すに被告両名の前示すの如く 皇室に…

1920年3月23日大杉栄、午前7時10分同志近藤憲二外の出迎えを受け市内電車にて9時50分本郷区曙町13番地へ帰宅せり

1920年3月23日 <出獄の辞>大杉栄 『労働運動』5号掲載

1926年3月23日 金子文子・朴烈、結婚届けを出す この届けは死刑判決を前提とし、二人の遺体引取り便宜のため布施辰治の以下のテキストが明らかにしている「ニヒリストの最後に、死を急いだ朴烈文子は其の遺骸の覚悟に関し、当時、文子の父も母も之を引取って呉れやうとは思はれず、又引取って呉れやうと云う同志の人には、刑務当局が引渡して呉れそうも無し、結局宙に迷ふ文子の遺骸を合法的に

引取る引取人を作る為に結婚届けを出した、真に悲壮凄惨な結婚届けだつたのである。本人自身等は形式の結婚届に相思の実を結ばうとしたのでも無ければ、法律的形式に服した訳でも無い、……文子自殺の原因を妊娠の結果と宣伝するものもあるらしいが馬島医師の…

1906年3月22日 大杉栄、東京監獄に移される。 

(3月15日 電車運賃値上反対の市民大会に参加、其の夜か翌朝に兇徒聚集罪により逮捕) 1906年 3.15 日本社会党電車値上反対第二回市民大会。兇徒聚集罪なりと認め刑事訴追に付し検挙、12名 7.9 東京地裁無罪判決を出す 8.1 東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京…

1927年3月21日。「和田久太郎君の追悼会」

和田久太郎君の追悼会は3月21日於神田松本亭にて開催された。『黒色青年』17号4月5日

1923年3月21日。大杉栄、フランスから林倭衛宛書簡。

「……マルセイユはいやなところだ。……20日午後8時。今リヨンに着いた。またあの色っぽい女のところにでも当分いよう。21日朝。」

1931年3月20日農村自由連合機関紙『農村青年』創刊

1926年3月20日。大阪市此花区吉野町2丁目55に自我声社が生まれた

機関紙『自我声』創刊号を3月20日創刊した。 『黒色青年』第1号消息欄 原本複写より確認 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収…

1924年3月30日。中浜哲、弾圧逮捕される。

入手資金確保のため、大阪に戻った中浜は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた。(「逮捕」時は離れた地点にいたので免れている)

1921年3月20日。週刊『労働運動』7号発行

1915年3月20日『微光』第6号発行

白山前町38番地「社告 本社は本月より移転」

1916年3月19日 平民講演会、大杉栄ら参加

牛込横寺町芸術倶楽部 午後7時より、参会者は大杉栄共14名(内未編入者2人)、大杉栄は「無政府主義の歴史」談として佛国に於ける労働者総同盟組合組織より革命の顛末に及ひ

1909念3月18日 平民社、千駄ヶ谷へ移る、管野須賀子、住み込む

1911年3月17日。大杉栄、大逆事件受刑者家族の慰問のため東京出発。

大阪市…三浦安太郎実父、武田九平の実弟訪問、百瀬晋と会う、三重県下月ヶ瀬に一泊 1911念3月22日 帰京

1927年3月16日『黒色青年』8号消息欄。 

■関東黒色青年連盟は、去る3月16日、今将に米国の最も惨忍なる手段によって、死刑に処せられようとしている伊太利の無政府主義者、サッコ、ブァンゼッチの両君を即刻釈放せよと、決議文を携えて米国大使館に殺到した。

1923年のこの日以降か? 金子文子と朴烈、富ヶ谷に移る

東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地。現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り

1923年3月15日『現社会』第3号発行

世田谷池尻412「××」烈生 註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」 「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子…

1906年3月15日電車賃値上げ反対集会 日本社会党電車値上反対第二回市民大会

兇徒聚集罪なりと認め刑事訴追に付し検挙、12名 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/akahatagiken-chro.html 布施辰治による社会主義者への初めての弁護> 山口孤剣を担当

http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/textbook/kyoukasyo50.htm

1925年3月8日。古田大次郎「逮捕」記事の解禁。

 『水平の行者 栗須七郎』紹介。先日、AMLにて共産主義と水平運動が話題になったのですが、水平運動に共産主義の影響しかなかったような認識の投稿だったので、『トスキナア』誌掲載の紹介を基にして投稿しました。

栗須は1928年に大阪で居住をしていた長屋を「水平道舎」と名づけ、1930年代、戦時下と在留していた朝鮮人少年の寄宿や近隣の子どもたちのための寺子屋として維持。1950年死去。 『水平の行者 栗須七郎』大きい画像が内扉。小さい画像が表紙。 後に成人して作…

荏原郡平塚村上蛇窪532番地

1926年3月6日<文子を養育した叔父を村から追放 朴烈の大逆事件に憤慨して 芙蓉面の住民騒ぐ>『京城日報』