2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧
爆弾入手資金確保のため、大阪に戻った中濱は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた。
〈恩赦も知らぬ獄中の朴夫妻 きのうきょうの生活は?流石に夫を案ずる文子〉……判決後4日間…このごろの彼等への差入は、朝鮮からはるばる出てきた晋直鉉弁護士が食事の全部を負担し差入ているが、朴は朝は牛乳1合にパン1片、昼は三十五錢の弁当、夜は官弁とい…
林倭衛宛「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の10日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする」 伊藤野枝宛「すぐドイ…
「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日、三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は…
【関連ブログ内リンク「シンチェホ」「白貞基に関する記事。『自由聯合新聞』」「韓国映画<アナキストたち>」】旅順監獄で斃れた朝鮮の革命家アン・ジュングンとシン・チェホ ──彼らと幸徳秋水、夏目漱石──昨年一一月、筆者はソウルにて開かれた「又観先生…
『朝鮮日報』はかつての旅順監獄跡に独房が遺され アン・ジュングンの遺品が保存、展示されているこ とを詳細に報告している。また「事件」の現場のハ ルピンからの報告では 「ハルビン市安升街にある朝鮮民族芸術館の1階には、 06年7月にオープンした安重根…
……被告朴準植は日韓併合の真相を解せず被告金子文子は矯激なる偏見に囚はれ肯謀りて畏くも 皇室に対する大逆事犯を企画し因て以て光輝ある我国史に一大汚点を印したる其の罪責は極めて重きものと謂はざるべからず法律に照すに被告両名の前示すの如く 皇室に…
引取る引取人を作る為に結婚届けを出した、真に悲壮凄惨な結婚届けだつたのである。本人自身等は形式の結婚届に相思の実を結ばうとしたのでも無ければ、法律的形式に服した訳でも無い、……文子自殺の原因を妊娠の結果と宣伝するものもあるらしいが馬島医師の…
(3月15日 電車運賃値上反対の市民大会に参加、其の夜か翌朝に兇徒聚集罪により逮捕) 1906年 3.15 日本社会党電車値上反対第二回市民大会。兇徒聚集罪なりと認め刑事訴追に付し検挙、12名 7.9 東京地裁無罪判決を出す 8.1 東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京…
和田久太郎君の追悼会は3月21日於神田松本亭にて開催された。『黒色青年』17号4月5日
「……マルセイユはいやなところだ。……20日午後8時。今リヨンに着いた。またあの色っぽい女のところにでも当分いよう。21日朝。」
機関紙『自我声』創刊号を3月20日創刊した。 『黒色青年』第1号消息欄 原本複写より確認 『自我声』(「CHIGASEI」と欄外にローマ字標記)創刊号 李春禎? 在大阪の朝鮮アナキストが発行「強者の宣言」朴烈、ほとんど伏字。後に『叛逆者の牢獄手記』に所収…
入手資金確保のため、大阪に戻った中浜は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた。(「逮捕」時は離れた地点にいたので免れている)
白山前町38番地「社告 本社は本月より移転」
牛込横寺町芸術倶楽部 午後7時より、参会者は大杉栄共14名(内未編入者2人)、大杉栄は「無政府主義の歴史」談として佛国に於ける労働者総同盟組合組織より革命の顛末に及ひ
大阪市…三浦安太郎実父、武田九平の実弟訪問、百瀬晋と会う、三重県下月ヶ瀬に一泊 1911念3月22日 帰京
■関東黒色青年連盟は、去る3月16日、今将に米国の最も惨忍なる手段によって、死刑に処せられようとしている伊太利の無政府主義者、サッコ、ブァンゼッチの両君を即刻釈放せよと、決議文を携えて米国大使館に殺到した。
東京府豊多摩郡代々幡町代々木富ヶ谷1474 番地。現渋谷区富ヶ谷1-28 NTT裏辺り
世田谷池尻412「××」烈生 註 タイトル、本文テキスト全て潰れていて不明。「×もなし」 「働かずにどんどん食ひ倒す論」朴烈、後に獄中で執筆する同タイトルの論文とは内容が異なる 「在日鮮人諸君に」金子ふみ 「朝鮮○○記念日」金子ふみ「破れ障子から」文子…
兇徒聚集罪なりと認め刑事訴追に付し検挙、12名 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/akahatagiken-chro.html 布施辰治による社会主義者への初めての弁護> 山口孤剣を担当
http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/textbook/kyoukasyo50.htm
栗須は1928年に大阪で居住をしていた長屋を「水平道舎」と名づけ、1930年代、戦時下と在留していた朝鮮人少年の寄宿や近隣の子どもたちのための寺子屋として維持。1950年死去。 『水平の行者 栗須七郎』大きい画像が内扉。小さい画像が表紙。 後に成人して作…