『水平の行者 栗須七郎』紹介。先日、AMLにて共産主義と水平運動が話題になったのですが、水平運動に共産主義の影響しかなかったような認識の投稿だったので、『トスキナア』誌掲載の紹介を基にして投稿しました。

 栗須は1928年に大阪で居住をしていた長屋を「水平道舎」と名づけ、1930年代、戦時下と在留していた朝鮮人少年の寄宿や近隣の子どもたちのための寺子屋として維持。1950年死去。


『水平の行者 栗須七郎』大きい画像が内扉。小さい画像が表紙。

 

 後に成人して作家となった鄭承博は水平道舎の書生の一人であった。
 栗須七郎の名は従来の水平運動史に関わる書籍でもごく簡単に出される程度であった。それは『水平社伝説からの解放』朝治武、黒川みどり、関口寛、藤野豊共著(かもがわ出版、02年刊)、
『差別とアナキズム―水平社運動とアナ・ボル抗争史』宮崎晃著(黒色戦線社、75年刊)においても例外ではなかった。
 前者は「水平運動史の評価軸の変遷、従来の研究では共産主義運動を軸にした運動史が中心で各地域での水平運動の多様性の無視、アナキズム派や独立派の研究の遅れ、組織内の女性差別、民族差別意識、戦争責任」に関し整理しつつ問題を提起している。
 そして栗須の研究がこれまで「放置」されていた経緯が多少なりとも理解できるが、その同書でも栗須に関しては水平運動「独立派」として研究がこれからであると、触れられているだけである。

 後者は二〇年代、三〇年代の水平運動を同時代の活動家であったアナキスト宮崎晃が運動紙誌復刻版を参照し、また当時の同志への書簡による問合わせで検証しつつ著しているが、「独立派」栗須と活動を共にしていたアナキスト同志たちから栗須の名を聴く機会を得ていなかったようだ。

 その栗須の評伝が一昨年『水平の行者 栗須七郎』として新幹社から刊行され(廣畑研二著06年8月 発行519頁A5判 六〇〇〇円)私も栗須の全体像を学ぶ機会を得た。

 栗須の生涯を同書の巻末略年譜から抜粋する。
栗須は1882年、和歌山県に生まれる。98年、部落出身という出自が知られ一年で教員を辞す。04年、日露戦争時、看護手として従軍。08年ころから宗教書を読みあさ
り、15年に郷里で差別事件が発生し村長糺弾闘争を指導する。
 翌年、堺利彦が『新社会』に栗須の闘争を紹介し交流が始まり20年には「社会主義者同盟」に入会。22年、水平社創立後の活動に加わり九月に小冊子『水平社とは何か』を執筆、刊行。以降、23年『水平行者』を始めとして発禁処分が続くなか水平運動のために著作の刊行が続く。28年以降は冒頭に記した「水平道舎」の時代である。

 水平運動のアナキストと栗須との関連では北井正一の名があげられる。1899年、新堂村生まれ、22年結成の河内水平社(のちの新堂水平社)の初代委員長、翌年8月の大会に栗須七郎を呼び、24年から大阪府水平社の執行委員として栗須を中心とする『水平線』『西浜水平新聞』『大阪水平新聞』の編集発行に尽力、25年ころから新堂がアナ派活動家の拠点となったのは「北井が運動のために私財を投入するという熱意のため」と評価されている。

 もう一人、関係が深かった石田正治は25年九月『祖国と自由』発行人として拘留され、同年栗須七郎の『大阪水平新聞』刊行に北井正一らと協力。新堂水平社幹部として検挙、27年七月大阪府水平社解放連盟を結成。(『日本アナキズム運動人名事典』参照)

 本書では25年、新堂水平社主催の「社会問題夏期講習会」の講師として朝鮮のアナキスト高順欽、崔善鳴も紹介されている。

 著者、廣畑さんは支配層の「言葉」の支配に対抗する力をもつものとして、「人間性原理の覚醒」という水平社第一次「綱領」の「言葉」、「徹底糺弾」という「言葉」を水平運動の基本理念、行動理念と定義し栗須の思想を理解しようとした。また水平運動史研究への姿勢は「独立派」とか「アナ派」というレベルで括る次元ではなく「本来の水平運動」に依拠している。

 本書で論じられている事項は栗須の生きた時代とつながり多岐にわたる。兵役忌避と海外移民、島崎藤村の『破戒』、切支丹とハンセン病患者迫害、大逆事件等である。また高嶋三治にも言及があり、「香具師を含む行動力あれる民衆の反逆のエネルギー」と民衆のネットワークにも触れている。

 蛇足になるが栗須の著作『水平行者』に関して、1923年、金子文子、朴烈の二人が治安警察法で囚われる二ヶ月前の6月30日に発行した『現社会』四号に、広告が掲載さ
れている。