2006-01-01から1年間の記事一覧

草稿<金子文子と中西伊之助>のために

《柏木より》中西伊之助 O兄、 『朝鮮時論』をありがとうございます。…… O兄、金子文子さんは、とうとう自殺しました。それも既に新聞で御承知だらうと思ひます。公判の言ひ渡しを受ける一週間ほど前、私は妻と二人で面会に行きましたが、それが文子さんに…

1923年12月27日、難波大助、ヒロヒト狙撃。

1924年12月22日 中浜哲 獄中にて詩作

髑房小景 艶消し戀我のビイルデイング 社會傳染病院の隔離室──冷蔵庫 三疊の板敷き床とん 便箱龜 福壽草 味噌摺鉢にて面洗へ!ゴザ一枚御座る 處方箋決定ナイヒリスチツク アナクロ、コンミニユズム 思想菌保有者にして下痢 下痢 下痢──便紙入用者は報知機を…

1908年12月21日。大条、平民社(巣鴨)で幸徳秋水より『麺麭の略取』を受け取る。

弁護士の新美隆さん死去 指紋押捺拒否問題で活動

2006年12月20日21時58分。新美 隆さん(にいみ・たかし=弁護士、島根大法科大学院教授)は20日、心不全で死去、59歳。葬儀は未定。戦中に強制連行された中国人が使役企業の鹿島を訴えた花岡事件裁判で00年、日中間の戦後補償裁判として初の和解に導い…

池袋にて会合。「ジュンク堂書店」にて李静和さんの著作購入。

1910年12月19日、幸徳秋水ら意見陳述を大審院で展開。続けて20日幸徳らの意見陳述、22日意見陳述、補充審問を終え、23日、弁護人の証拠調べ、24日、弁護人の証拠書類閲覧、鶴裁判長は弁護側の証人申請を却下した。25日、検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。27、28、29日、弁論。28日に幸徳の母は中村にて死去する。

1914年12月18日『平民新聞』3号発行。次号の4号に発行状況コメント。<平民社より>大杉栄「新聞の印刷が出来る前から、14,5人の刑事が印刷所を取りまいている。少々シャクに触ったから、電話で自動車を呼んで、囲みを破って逃げ出した。…翌日十数名の同志は家宅捜策を受けた。しかし、新聞は殆ど何処からも出て来ない。」『平民新聞』4号に掲載。

コスモス忌。12月のコスモス忌、詩人・秋山清を偲ぶ会に出席。

1923年12月16日大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の葬儀。自連系の労働組合、思想団体の合同葬で谷中斎場で無宗教で行われる>

1910年12月16日岩佐作太郎、サンフランシスコで「幸徳記念演説会」を開く。作家ジャック・ロンドンが支援し日本大使に抗議文を送る。幸徳秋水。

1910年12月15日。大逆事件 内山愚童、武田の意見陳述。16日、岡本、三浦、岡林、小松の意見陳述と連日の集中審理であった。幸徳秋水は公判の合間、休廷日の17,18日に弁護士宛ての文書を執筆、無題であるが後に「陳弁書」と言われている。再び公判が続く。

1922年、12月14日大杉栄。イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

1926年12月13日。朝鮮ムンギョンの金子文子の墳墓、官憲の意図を呈した報道<訪ふ人もない金子文子の墓 聞えるものは鳥の声ばかり 発掘の憂更になし>

日をふるにつれ今は漸く世間の人の注意から遠ざからうとする金子文子の遺骨を埋た身北面8霊里の朴庭植所有墓地は引続きその筋から身北駐在所と連絡をとつて厳重監視を怠らぬ由であるが未だ1回だに墓前を訪ふ者なく尚州山脈につゞく山また山のふもとで耳に入…

読書のためのメモとしてhttp://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book568.htm、http://www.aaaa.co.jp/item/00000504930.html、http://www.k3.dion.ne.jp/~societe/newfiles/2nd-linernotes.html

1922年12月12日。大杉栄、朝、神戸に着く。ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す。

金子文子と中西伊之助の原稿をまとめる。

1922年12月11日。大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる D「そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で国際無政府主義者同盟が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な国際無政府主義者の組織を諮ろうと思ったからでもあった。」

日の出山から御岳にかけて山歩き。気候穏やか。帰途は吉祥寺にて二次会。

1920年12月10日。日本社会主義同盟結成大会。(実際は前日に結成)。官憲情報。午後6時26分、大杉栄、入京神田青年会館に開催せる自称社会主義同盟講演会に臨みたるが直ちに公安を害するものと認め錦町警察署に検束せられたるも即時釈放

1910年12月10日幸徳秋水らの大逆事件、特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述、12日、管野、古河、新村善兵衛、幸徳の意見陳述、13日幸徳、森近、奥宮、大石、高木、峯尾、崎久保、成石兄弟の意見陳述、14日、松尾、新見、飛松、佐々木、坂本の意見陳述

台湾におけるアナキズム運動に関して、意見交換。(近現代)。台湾からの来訪者との交流。シン・チェホの朝鮮革命宣言に関しても話す。

1901年12月9日。田中正造が麻布宮村町の幸徳秋水を訪れ足尾鉱毒問題での天皇への直訴状を執筆依頼。

肝硬変の知人の治療に付き添いで、街の内科医院の治療に行く。夜は地域の九条の会主催の映画会。

午前は自宅。昼前から新宿へ。

午後までK市に滞在。

自宅。

1920年12月5日。大杉栄、東京牛込山吹町、八千代倶楽部に開催せる高津正道主催暁民会講演会に参りたるも間もなく所轄署へ検束せられ午後7時釈放(?)となり同夜麹町元園町同盟仮事務所の同盟研究会に出席同10時退散

1919年12月5日。望月桂宅の「研究会」黒耀会として会則を整える。[小松『大正自由人物語』]

『週間金曜日』の原稿まとめ。夕方から池袋ジュンク堂。李箱をめぐる対談を聴く。