2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧

1910年5月31日。明科事件「刑法73条該当事件として検事総長に書類が送致され大審院に予審請求、開始決定」

1909年5月31日 

「先生(幸徳秋水)は新宿署へ、私は警視庁に喚ばる、新聞紙法改正に就て詰らないお達しを受ける為めなり」 『自由思想』第二号「ぬきが記」管野須賀子

1925年5月31日。古田大次郎『獄中手記』より「義兄、姉への手紙、

快晴の朝、布施弁護士の話、山田君、小西武夫君、伊藤孝一君新谷與一郎君、『関西労働者』」

1909年5月30日。平民社[千駄ヶ谷]終日来客、向かいの貸家に巡査が引っ越して来る。『自由思想』第二号 「ぬきが記」管野須賀子

1925年5月30日。古田大次郎『獄中手記』より「大阪の友人には死刑はなかった、初めて教誨師に面会した、S子さんを思い出す、死は怖ろしくない、只、非常に淋しい、父への手紙、親戚…」

1919年5月29日。大杉栄、午前9時頃より村木源次郎と共に東京監獄に至り在監中の和田久太郎に面会し和田の実父が病気危篤の旨を告け且つ和田及延島英一等に対し差入を為したり

1925年5月28日、中浜哲へ無期懲役の判決。中浜は裁判制度を否定し法廷では黙秘。

1914年5月27日。大杉栄 <大久保より> 「……此の雑誌のあまりの馬鹿々々しさに、もうとても堪えられなくなった……僕等自身の手淫的満足と、同志の間の連絡維持とは、多少果たす事が出来た。しかし僕等は、アナルシストとして又はセンジカリストとして、積極的には何事もしていない。……労働雑誌の創刊を企てた……僕は、鎌倉の土地にあきが来たのと、……此の月末に、もとの大久保の家即ち社に帰って来る。社には今寒村がいるのだが、寒村は社の隣のもとの家にかえる。そして其処に入っていた安成二郎は、何処か近所にひっこす事となっ

1909年 5月27日 内山愚童和尚が横浜の警察へ拘引された△榎君が見舞に行く筈△今日から来客の荷物を調べず一々姓名を調べる事になった、『自由思想』二号 管野須賀子「ぬきが記」

1909年5月26日『自由思想』注文が来る、買いに来る人がある、数人の同志が発売禁止の見舞いに来て下さる (二号「ぬきが記) 管野須賀子

1925年5月25日。古田大次郎『獄中手記』より。「庭のタンポポ、死刑囚の心理状態、赤煉瓦の塀が灰色に塗り替えられた事、歌の事、後藤君への差し入れ、中浜君の詩人である事田中白袴君の詩の事、河合君の戯曲の事」

1923年5月25日。大杉栄、林倭衛宛書簡。「きのうの朝放免と同時に警視庁へ連れて行かれて、すぐ国境まで出ろという命令を受けた。……最初はスペインの国境以外には行けないということだったが、最後にマルセイユまでときまって、8時のラピッドにガール・ド・リヨンまで送られて来た……はなはだ相済まないが、友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……ヨンにある荷物も取って来て欲しい。外にもいろいろ頼みたいことがある。……リヨンへ寄ったらEliisee ReclusのL'H0mme et la ter

1919年5月25日。大杉栄、午後3時 千葉県葛飾村 富士山三郎方物置場前 同村駐在巡査安藤清か巡回の際大杉は他の尾行巡査に対する余憤を以て同巡査を鉄拳を以て左頬を殴打 治療十日 を要する傷害を加えたる……(官憲史料より)

1910年5月25日  宮下太吉、弾圧逮捕される

1909年5月25日『自由思想』創刊、管野須賀子、幸徳秋水ら。管野須賀子 二号「ぬきが記」より。初号発行の当日なり△予て用意の「平民社」の看板を懸け早朝から室を清めて差押えを待つ…新宿署の高等刑事徳元君が差押さえ命令書を携え来り残部八十六部押収して帰る秩序壊乱で発行兼編集人の私は告発された△国木田治子女史発行のお祝いを持って来て下さる、帰途例の通り巡査に捉って「これはおもちゃですよ」

1909年5月24日。平民社騒然となる。活劇の評判が聞えたのか同志諸君が続々様子を聞きに見える……

△十一時頃○君と×君を又調べる、×君大に憤慨して荷物の風呂敷包を押拡げ、冷罵嘲笑二人の巡査を顔色無からしめて悠々去る…… △此数日来数人の同志の苦心惨憺たる活動は到底筆紙に尽し難し「口より耳に」以外は沈黙、日本も露国化する 『自由思想』二号 「ぬき…

1926年5月24日「全国労働組合自由連合会創立。東京浅草区北島町、統一閣にて全国から400名の代議員が参集」 

1923年5月24日。大杉栄「裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。4時頃、一等書記官の杉村なんとか太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた」

1899年5月23日。萩原恭次郎、群馬県南橘村に萩原家の次男として誕生

詩の一部、クロニクルは『萩原恭次郎の世界』を参照してください。

1909年5月22日。幸徳秋水、管野須賀子等と『自由思想』創刊

印刷所で刷り上り、取りに行く(管野須賀子 二号「ぬき書き」より)活字上の発行日は5月25日

1925年5月21日。古田大次郎「獄中ノート」より「裁判所に行く前<午前6時頃>に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった、今度は中浜君は、たしかにそれを実行したが、僕は一歩退いて、それを実行できなかった、「僕のヘマから倉地君と新谷君に大変な迷惑をかけたのだから、出来るだけ両君のために弁明して見たい為に外ならぬ。」

「今日は曇天、降りそうだ、まだ呼びに来ぬ」「何だか死刑場に呼び出される気持ちを小さくしたような気持ちがする」<午前7時> 「一日で全部の<東京に於ける全部>の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」 「裁判の感想、和田君の熱弁もうれしかった...感…

 1916年5月21日。平民講演会宮嶋信泰方にて開かれる、大杉栄は欠席 。大杉栄は当日千葉県に滞在中なる情婦伊藤野枝(未編入)方に赴き居りて参会せざりしが出席者は10名にして講演なく雑談を交えたるのみにて散会せり (官憲史料より)

1919年5月20日。大杉栄、南千住町 吉田一主催の「労働相談所」茶話会に出席。演説 「英国労働界の状況……」

1909年5月20日。管野、幸徳『自由思想』校正に行く 

前夜来抜目なく支度してマンマと警戒の眼を眩まし、雨の中を先生と校正に行く△校正刷りの裏に赤インキで「壮哉、吹き倒す起る吹かるる案山子哉」と書いてあった。ああ此処にも隠れた味方があると嬉しく思ふ△門に貼った「幸徳」と「平民社」の名刺を持去った…

1918年5月19日。同志たちが革命歌を高唱し渡辺政太郎の棺を送る。渡辺政太郎宅にて葬儀。同志40名参加、村木源次郎司会、堺利彦、山川均、高畠素之弔辞、日暮里火葬場まで同志たちが赤旗を先頭に革命歌を高唱し棺を送る

1925年5月19日。古田大次郎『獄中手記』より。

短歌二十一首、布施弁護士の話、大阪の事件は全部公開禁止、検事は富岡、河合、小西、小川、内田、茂野の六君に死刑求刑、「死ぬのは僕一人だけではなく、友人も一緒だと知ると、淋しい喜びを感ずる」243 千住の「三色の家」 (仲間との思いでの場所) せめて…

1910年5月18日。管野須賀子、東京監獄に収監される

1918年5月17日。渡辺政太郎病死 享年46歳、「研究会」は近藤憲二らが維持する

1920年5月16日。大杉栄、服部浜次方に開催せる労働問題研究会に出席

1925年5月15日。古田大次郎『獄中手記』より。「午後4時半の運動、死というものが未知、死の安らか、運動場の壁にGMと落書きしてあるのが今日久し振りで見つかった、言うまでもなく村木君の署名だ…」