2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧

1920年5月15日。大杉栄、若林方、「労働同盟会」に出席

1919年5月15日。大杉栄、神田青年会館内にて開催、黒瀬春吉主催「労働同盟会演説会」に出席。後に大杉栄、若林方で開催の「主義者例会」に出席

1918年5月15日。大杉栄「主義者研究会」を開催

1915年5月15日。平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 出席者15名、荒畑が露国革命運動の講演を為し、大杉栄は以下の講演を為す 「露国政府が革命者を迫害する程………」

1924年5月14日。金子文子、第12回訊問調書

一問「被告が朴と相談の上金重漢に対して爆弾入手の事を頼んだのは皇太子殿下の御結婚期にそれを使用する考からであったとの前回の申立ては相違無いか」答「左様です」二問「被告等が金翰に対して爆弾の事を頼んだのも矢張り殿下の御結婚期を期して居たので…

1909年5月14日。管野須賀子「ぬき書き」『自由思想』創刊号

秋水先生動向「数日前から歯科医に通って居られた先生、今日は殊に療治が荒かったので終日苦しまれる、然し痛いと口には出さないで『歯を治しておかないと演説ができないからなァ』

1925年5月13日。古田大次郎『獄中手記』より。「死の安らかさ、自殺、有島武郎、夢、覚悟…」

1909年5月13日。管野須賀子「ぬき書き」秋水先生動向『自由思想』創刊号

「古河君から印刷所が要領を得たとの便りがある。日頃の愁眉を初めて開かれた先生、徐に遽かに新聞を彼是れと引摺り出してァヽしやうか、かうしやうかと喜色満々」

1924年5月12日。朴烈、第十回訊問調書、市谷刑務所、「しかし俺が日本の皇室、とくに天皇、皇太子を対象の一つとくに最も重要なるものの一つに挙げたのは第一に日本の民衆に対しては日本の皇室がいかに日本の民衆の膏血を搾取する権力者の看板であり、また日本の民衆の迷信している様な神聖なる事神様の様な者では無くて、実は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を即ち日本の皇室の真価を知らしめて、其の神聖を地に叩き落す為、 第二に朝鮮民衆に対しては、同民族が一般に日本の皇室を総ての実権者であると考えて居り憎悪の的として居るか

1911年5月11日。大杉栄、岡千代彦出獄出迎えのため千葉監獄前旅館に堺と宿泊

1909年5月10日。管野須賀子、官憲の尾行にウンザリする

『自由思想』創刊号 1909年6月刊「ぬき書き」管野須賀子 五月十日 上野から俥を飛ばして千駄木の友人を訪ふ、車上振返ると 書生風のお供が、矢張り俥で追駆けて来るのでウンザリした。

1916年5月9日。大杉、野依、安成、荒畑たちと会う。大杉栄より伊藤野枝宛書簡

「きのうは、夕方土岐と会うはずになっていたものだから、安成と一緒に出掛けて読売へ行くと、そこへ荒川が来る、さらに四人で社を出ると、路で荒畑に会う。こう大勢になると、夕飯を食うのも大変だし、ともかくもとカフェ・ヴィアナヘはいる。いろんな話の…

1916年5月8日。大杉栄より伊藤野枝宛書簡「……正午頃から珍しく孤月におそわれた。……あした安成二郎がそちらへ行くと言っているから、それと強制同行をしたらどうだとすすめている。二郎は、ゆうべやって来て、保子に対する僕の心持ちを『女の世界』に書いてくれと言うのだ。それはおことわりして、ほんの少しだけ話をしておいたが、きょうは神近のところへ行ったはずだ。……孤月と強制妥協して、次のごときハガキを『読売』へ送るつもりで書いた……また今、二郎が来て、とうとう書くことに約束した。あしたの朝八時の汽車で行くそうだか

1916年5月7日。大杉栄、平民講演会を開催。牛込横寺町芸術倶楽部 出席者11名、講演なく雑談、次回よりは経費不足の為順次同志の居宅にて開催

1926年5月初旬 《関西黒旗連盟》成立

「関西に輝く黒旗の光り」《関西黒旗連盟》『黒色青年』4号相続いて関西の同志は一人、二人と或る者は長い既決囚へ、或る者はギロチンへの尊い犠牲が払われて行った。そして密かに大衆的運動も、既に二、三年来『黒旗連盟』なる名称の下にその結束と画策と…

1918年 5月6日 大杉栄、<状勢>友愛会小松川支部の講演会に聴衆として和田久太郎を伴い出席「労働新聞」を配布

1925年5月5日。中浜哲、大阪地裁第3回公判で死刑求刑される

東京朝日新聞1925年7月5日 公判廷爆破の陰謀計画を述ぶ 福田大将そ撃に関連した大阪の爆弾事件公判<大阪電話> 福田大将を狙撃した東京の主義者と気脈を通じ大阪刑務所北区支所に収容されたギロチン社員を脱獄せしめる為北区支所及び裁判所の公判廷爆破の陰…

1919年5月4日。上海アナルコ・サンジカリズム<無政府工団主義>の団体《中華工党》ゼネスト扇動

1919年5月4日。北京の学生アナキズム団体《工学会》、反日帝運動に決起

1923年5月3日。大杉栄「ラ・サンテ監獄に送られた」

1920年5月2日。大杉栄、メーデーに参加何等不法の企あるとの噂にて予防の為一時検束を受けたり

1920年5月2日第一回メーデー 。大杉栄、5月1日の行動、この時期は鎌倉に住んでいた「翌日の昼東京に出た、玄関から門を出て真っ直ぐ停車場へ行った。誰もお供が来ていない。其晩は日比谷の服部の家で泊った。そして翌日、即ちメーデーの当日、服部と一緒に上野へ行こうとする所を日比谷署の視察共にちょっと署までと云われて、上野の会の済むまで其処に検束されて了った。夜、鎌倉に帰る」

1923年5月1日。サン・ドニのメエ・デエ 大杉栄、巴里のメーデーで演説。金子文子は東京のメーデーに参加

1927年5月1日。「5月1日、メーデーに際して、わが黒色青年連盟は時局支那問題に関するビラを東京全市に撒布した」 5月1日 琉球黒旗連盟≪事務所 琉球糸満町773城田方≫ 「5月1日、発会式を那覇公会堂に開催、集まる者千名近くの大盛況、出る弁士は何れも片…