2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

1925年6月27日 古田大次郎公判 検事論告 和田久太郎陳述

古田大次郎「獄中手記」より、後に『死の懺悔』として刊行昨日、松谷、中村両弁護士来訪 「友人の刑が気にかかる、中でも倉地君のが一番心配だ」11時開廷、中村高一君の証人調べあり、僕に対する大阪小阪事件の証拠品調べが澄んで、愈々検事の論告に移った「…

竹中労著作刊行される。『聞書 庶民烈伝』上巻。

経堂、ジャズと酒の店で井家上隆幸さんと懇談。三一書房サイト↓ http://www.san-ichi.co.jp/ 竹中労ファンの皆様、お待たせしました!『聞書 庶民烈伝』上巻 創価学会初代会長・牧口常三郎の空白とも言うべき生い立ちと事績の真実に迫り、「庶民」の側から明…

1908年6月22日 赤旗事件

<廿二日の無政府党の活動> 東京 竹内善朔 …6月22日、在京の諸同志は山口義三君の出獄を神田錦輝館楼上に於て迎え、…。発起人は石川三四郎君外三氏なりと曰い或は東京社会新聞社同人なりとも曰う、吾人は其何れなるやを知らざれども案内状に二様の別ありた…

和田久太郎の法廷陳述『労働運動』第十一号大正十四年七月一日発行

「公判廷に於ける和田久太郎君」「和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた」 1925年6月21日 和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた。 「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人…

1908年6月19日。官憲と同志の大衝突(上野停車場で山口孤剣を迎える)

<官憲と同志の大衝突>赤旗の擁護 東京三木生報。評論社諸君、昨6月19日我等同志は上野停車場附近に於て、又もや官権との大衝突を起しました、而して事の原因は言うまでもなく、当局俗吏の無法なる干渉、謂れなき圧制、乱暴なる喧嘩仕掛けより起ったのです…

1918年 大杉栄 和田久太郎と共に主義研究会を 開催

1918年 6月18日 大杉栄 和田久太郎と共に同志の主義研究会を 開催せり

1923年 不逞社例会、加藤一夫講演、金子文子、朴烈ら参加

1923年 6月17日 不逞社例会、金子文子、朴烈、新山初代参加加藤一夫の「革命理想及革命時の組織」という講演

1908年 電車賃値上反対事件、罰金の2名を除き上告

6.16 電車賃値上反対事件、罰金の2名を除き上告関連記事『熊本評論』27号2面<奇怪の風説>「電車事件、一審、二審無罪、大審院が破棄して宮城控訴院に移す、★判事間に激論ありしが陪席判事が其の地位の餌を以て動かされ有罪に決せるなりと伝う、被告は上告★…

1921年6月15日 

神田区北甲賀町駿台倶楽部内労働運動社内に大杉栄主催、北風会を開催す会同者約50名

1918年6月15日 

近藤憲二等北風会を主催す。近藤憲二、村木源次郎、石井鉄二の3名は主催者となり無政府主義者渡辺政太郎の追悼を兼ね同人の生前開催し来りし「実生活研究会」復活の目的を以て同志の会合を催せり参会者は主義者13名未編入者数名なりしが同志和田久太郎、中村…

世田谷区教育委員会、校長会、文

科省に「過激」視される横尾忠則作品とタイトルをしたテキスト・コラージュ。「教科・日本語」を推し進める世田谷区教育委員会、区立小学校校長会は別件でも≪「教育基本法」の精神にかなう企て・By「展 評」ブログのコメント≫を図った。 それは自ら企画した…

1908年6月13日。電車賃値上げ反対事件、宮城控訴院有罪判決

西川光次郎重禁錮2年、岡、山口、吉川、大杉栄他2名は1年半、6ヶ月1名、罰金10円4名 『東京社会新聞』1908年13号 7月25日 掲載判決文より

1915年6月12日。渡辺政太郎、小石川区白山前町38番地なる同宅に於て同志者の「家庭会」を開く。参会者は渡辺政太郎 小原慎三 吉川守国 原子基 久板卯之助 外に無編入者 古川啓一郎 井上猛一、若林ヤヨ(渡辺政太郎内縁の妻)の8名にして小原慎三の欧州戦争に関する談話等あり次回の会合を来る7月10日に申合せの上散会せり  <状勢>

1907年6月11日。大杉栄「午前中はアナキズムとイタリア語との研究をやる。アナキズムはクロポトキンの『相互扶助』と、ルクリュの『進化と革命とアナキズムの理想』というのを読み終わ った。今はグラーヴの『アナキズムの目的とその実行方法』というのを読んでいる。……」と堀保子宛の手紙、巣鴨監獄

1923年6月10日頃。不逞社で望月桂の「アナキスト革命運動」の講演会が開かれる

1926年6月9日。「倉地啓司、新谷與一郎君の爆弾事件の公判は6月9日、東京控訴院にて開廷、次回7月9日」『黒色青年』4号「消息」掲載

1922年6月9日。久板卯之助の追悼会、浅草でも開かれる。

1910年6月8日。宮下太吉第5回予審調書。内容≪明科での生活、姉と同居≫

答 錦輝館事件のときのような暴動とは言いましたが、あのくらいの程度のことではありません。それなら何も爆裂弾など必要ではありません。私は官憲に抵抗して暴動を起こすというので、諸官省はもちろん、三井・岩崎などにも放火し、爆裂弾をもって各大臣をや…

1925年6月7日。古田大次郎『獄中手記』より。「川柳、心が落ち着かない、ジャック・ロンドン『奈落の人々』を読んだ、大正12年春、鵠沼を引き上げた中浜と僕はドン底生活をやろうというので、四谷旭町辺に家を探した事がある、中浜は...かねて考えていた『ドン底社』の旗揚げをするつもりだったのだが...『底路社』というのを作った、この『底路社』とはテロリズムのテロから採ったのだそうだ、千住の家は最初ギロチン社の落武者収容所にあてる積もりで借りたので、決して物騒な団体の根城にする考えではなかった、...表には依然と

1923年6月7日。大杉栄、林倭衛宛「……地中海は実に平穏だ。……あしたの朝は早くポートサイドに着く。……また、お願いがあるが至急日本に向けて、いつかもお願いしたことのあるファーブルの本を送ってくれないか。リヨンで買ったはずなんだが、荷物を調べて見当たらない。帰るとすぐ翻訳しなければならないものなんだ。『自叙伝』の装ていを忘れるなよ」

1922年6月7日。伊藤野枝、大杉栄に四女ルイズが生れる

1916年6月6日。大杉栄より伊藤野枝宛「……四谷へ行ったら『中央公論』と『新潮』とが買ってあったので、さっき送った。……本当を言うと、僕は、僕に対するあなたの悪口を一番きいてみたかったのだ。僕に対するあなたの今までの不満とか不快とかいうものを、一つ一つ詳細に聞いてみたかったのだ。今なお続いているものも、またすでに消えさったものも、いっさい。そして僕もまた、あなたに対して今まで思っていたことを。すべてあなたに打ちあけてみたかったのだ。……お互いにあまりに好き合っていたということと、したがって比較的によく理

……きのうは朝からのお客で、夕方になって幾度目かの新しい客が来ている時に、思いがけないあるハガキに驚かされた。それは、いつか書いた僕の幼な友達からのもので、その亭主が不意に死んだという知らせだった。すぐ二本榎のその家まで行って、とうとうけさ…

1909年6月6日。宮下太吉、千駄ヶ谷平民社を訪れる<爆裂弾の製造法がわかりました>と話す

1927年6月5日。「消息」『黒色青年』9号。<銀座騒擾事件の判決・懲役八カ月、四名、懲役八カ月以上一年未満・少年法による・山崎真道、罰金二名>

1906年6月5日。幸徳秋水、サンフランシスコを離れ日本に戻る

1925年6月4日。古田大次郎『獄中手記』より「死ぬなら今朝のような日に」

1916年6月4日同志茶話会。宮嶋信泰方。大杉栄出席、平民講演会は当分休止之を改称、会する者15名

1925年6月3日。古田大次郎『獄中手記』より「大阪の友人達とも愈々お別れだ」

1923年6月3日。大杉栄を乗せた船はマルセイユを出発

「朝早く、碇をあげた」。

1916年6月2日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛「朝鮮の同志が訪ねてくる(前日)」「きのうから仕事を始めるつもりでいたところが、朝は青山女史が遊びに来る、午後は朝鮮の同志がしばらくめで訪ねて来る……とうとう10時近くなってから宮島のところへ出掛けた。……やがて宮島が戻って来る。少しおしゃべりをしているうちに12時になり、とまれとすすめられるままに床にはいったが、1時頃にスリバンで驚かされて、二人で見物に出かけた。……四、五軒も焼けたろうか。……」