2006-02-01から1ヶ月間の記事一覧

「二十六日夜半」その参

其処でかふした私の態度に発せられたと憶える昨日の上村氏のご質問に対し、徹底的に答へて置きます。上村氏は私が『もうどうせ此処まで来たのなら』と云ふ風な気もちでお役人の訊問に応じた事はよかったかとのお訊ねでしたが、其の先がちと曖昧だった。『も…

当日録に金子文子「二十六日夜半」結論部を追補

『秋山清著作集 第6巻 竹久夢二』発行される。

宅配便で届く。3月1日発行。次回配本は3月中旬、第2巻「日本の反逆思想』とのこと。刊行ペースが早いのか、本来昨年末に刊行開始となっていたので、調整して早めたのか…。 『トスキナア』三号、依頼した筆者の方々から原稿が届く。

転載<池田浩士記念講演「ファシズムはみんなのねがい! 歴史の中で考えるヒトラー・天皇・自衛軍」 救援連絡センター第2回総会>

2006年3月18日(土)午後1時から、文京区民センター2-A(都営地下鉄春日駅)で、救援連絡センター第2回総会を開催します。入場は無料です。 今回は、活動報告に加え、池田浩士さん(ファシズム研究家)による記念講演「ファシズムはみんなのねがい! 歴史の…

金子文子・朴烈大審院判決 部分

理由 両者の略一致せる極端なる思想は輒滋々高潮して其の理想を実現せしむる為具体的計画を樹つるに至れり大正十二年の秋頃挙行あらせらるる趣に伝えられたる 皇太子殿下の御婚儀の時を機として至尊の行幸又は 皇儲の行啓を便宜の途に擁し鹵簿に対し爆弾を投…

「二十六日夜半」金子文子 その弐

其処で私は今日申した通り自分が何主義だか何思想だか知らない。私が知って居る事は「自分は斯ふ思って居る」と云ふだけ。しかし若し此処までの私の考え方に便宜上ちょっと客観的に断定を下して置いて見るなら、私は多分個人主義的無政府主義者と呼んで差し…

<二十六日夜半>金子文子 『朴烈・金子文子裁判記録』黒色戦線社

「〈自分は今斯うやりたいから斯ふやる〉これが、私にとって自分の行為を律すべく唯一つの法則であり命令です。もっと判り易く云ふと、私の行為の凡ては〈私自身さふしたいからさふする〉と云ふ丈の事であって、他人に対しては〈さふせねばならん〉とも〈さ…

1926年2月26日金子文子、朴烈の大審院公判が始まる。

金子文子はその日の夜、公判で主張した内容を整理し執筆する。翌27日の公判において読み上げ、書面として提出。 <二十六日夜半> 金子文子 「昨日云った或る点に就いて、其の意味がよく解り兼ねるから改めて書いて来て欲しい、と云ふ風な注文を書記さんから…

『前世ハンター』野崎六助、〇一年七月発行、新潮社刊

以前にも評論家のM.M.さんから出版されていることは教示された。今月の初めに会ったときに再び話題になったので図書館で探し借りることが出来た。出先の地域図書館には野崎六助の著作がそろっていた。 小説。SFのジャンルになるのかミステリーなのか、はたま…

奥多摩の大岳山1,266m周辺を歩いて来ました。地図もガイドブックも無しで出かけたのですが、土曜日ということで青梅線「御嶽」駅のビジターセンター、御岳山頂下のビジターセンターに担当者がいて簡易地図を入手。ビジターセンター10時20分発。前夜の雨は山の上では雪、積雪3cmから5cm、急登や岩場ではひたすら滑らないように足元に意識を集中。行き交う人の半分くらいは軽アイゼンを着けていた。休まず歩き12時少し前に大岳山に到着。週末ハイクを楽しむ人で賑わい騒々しかったので10分で退散。馬頭刈尾根に向かい一時間半で林

昨日24日は『トスキナア』世話人会=編集委員会

三号編集中、集まっている原稿の確認、発行予定は4月15日。 第三回講座 5月14日(日曜)午後 「中浜哲とギロチン社群像」正津勉さんに講師を依頼。場所は未定。

『獄窓から』和田久太郎

昭和三年一月九日 地球がガタンといふ響きと共に廻轉して、此間お芽出度い昭和の三年がやって来た。 さてお芽出度う。久さんも御年三十六歳にならせられた。君も、ふく子さんも、桂君も、公っぺいも、明坊も、皆んな間違ひなく一つだけ年をとつた事と考へる…

『獄窓から』和田久太郎

大正十四年十二月十三日 漸くの事で此の手紙を書かせて貰ふことになった。九月以来だから、一寸久し振りだ。皆々無事壮健の事と信ずる。 先達って、近藤君と共に桂(望月)君が面会に来てくれたのは、大いに嬉しかった。厚くお礼を言ふ。近藤君へは残念ながら…

平熱に戻りました。喉の調子が悪かったようです。35℃後半から36℃前半で安定。ひたすらの水飴療法で喉の腫れを抑えています(笑)

『獄窓から』和田久太郎

昭和二年三月十三日 …恩典は予期しなかっただけ、それだけ喜びも大きかった。君の言葉の如く、これで『どれだけ心丈夫かしれない。』たとへ十八年後の遠い所にでも、兎にかく一点の光明が認められるやうになったのである。その遠い所の一点の光明が現在の心…

昨夕から体調悪くなり夜は横になっていました。今日の午前中は38℃の発熱。一月に一年分の「病」にかかったつもりだつたのですが、そうもいかないようで。動けなくなる前に図書館に本を返却に自転車で出かけました。図書館は梅の名所の近くにあるので近辺はにぎやかでした。山の原稿の著者校だけは何とかすませました。

『獄窓から』和田久太郎

秋田からの書簡 大正十五年二月十一日 一月十三日附貴翰十八日拝見。お察し通り、始めは雁の如く、次に鶴の如く、時経っては麒麟の如く、大いに伸首して待てり。しかも披見に及んで、僕よりの依頼せし事情の為に遅れたるを知り、恐縮、大恐縮、首は忽ち亀の…

『大正自由人物語』その弐

望月桂、近藤憲二の二人は昼一二時ニ〇分に秋田駅着。 以下、小松による和田死去の日の状況が述べられている。「和田の急死は秋田刑務所の記録では監房にて午後七時に縊死(自殺)となっている」「二月二〇日は雪で明け、雪で暮れた。朝方には氷霰も舞った。一…

朝鮮革命宣言 1923年 部分 シン・チェホ

五、革命の道は破壊より開拓すべし。然れども破壊の為に破壊するに非ず、建設するが為破壊するものなり。若建設を知らざれば破壊する道も知らず、破壊するを知らざれば建設する道も知る理なし。……破壊せむとする目的は 第一異民族統治を破壊するなり。如何と…

『大正自由人物語』小松隆二著 88年発行岩波書店刊

2月21日、望月桂、近藤憲二、上野発夜9時半の急行青森行で秋田に向かう

原稿アップ

山関係の原稿をアップしてつかの間の息抜き。次に『トスキナア』の原稿が控えています。日曜日はアンドロメダ忌に参加。青山霊園は寒くはなかった。参加者の一人の方と映画『アナーキスト』から義烈団に関して話題が発展し少し話す。来年は、区切りの年なの…

シン・チェホ

1880年11月7日<旧暦>-1936年2月21日<旧暦> 新暦1880年12月8日-1936年3月14日 歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動、アナキズム運動の中心で活動。忠清南道大徳郡山内面於南里に生まれる。成均館に入校。1898年、独立協会に加入して活動…

和田久太郎

<久太と渋六 日なたぼっこの会の約束> 堺 利彦 和田久太郎君が去年以来、監獄から私によこした手紙を集めて、繰り返し読んで見た。そこに『久太と渋六』の面影が(少なくとも私にだけは)非常に面白く現れている。以下、それを抄録して見る。 <…略…> 「…

人力飛行機ソロモン・市外劇

1970年新宿市外劇 「想像力の空にレインコートの両手をひろげたままで落下して行くとき…さむい十一月の空からぼくの心臓までまっすぐに重心をたらして飛ばすべき百万人の名をかぞえることのなかに革命と反革命との原点をまさぐろう。」と俳優は語っていた。 …

和田久太郎

和田久太郎執筆記事一覧、概要 <『労働運動』紙> 『労働運動』第一次 騒擾中の足尾(二) 三号 五面 1920.1.1 「<大杉栄、当地に入込み>新聞紙の報道に煽動され梅田駅から乗ったのは師走三日の正午頃、東京の土を踏むや否や本社へ駆けつけてみると足尾へ…

山関連の原稿の第一次締切り

転載「沖縄“笑いの巨人”伝 〜照屋林助が歩んだ戦後〜」

今晩10時からNHK教育テレビで初放映 ETV特集第127回 『沖縄“笑いの巨人”伝 〜照屋林助が歩んだ戦後〜』 http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html 18日朝現在左記URLにアップ “沖縄の戦後芸能界の巨人”といわれた音楽家・漫談家、照屋林助が平成17年3月、75…

『リュックサック』五号

「昨年の秋でした。あのテロリスト古田が死刑台の露と消えたのは。牢獄の隅に咲く野菊に淋しい想をよせて、彼の良心が彼に教へた道を踏んだために廿六の若さを以て逝いた全生涯は悲しくも惨々しいものです。」藤田信道。「或る山男の手記 安田君に捧ぐ」(『…

『労働運動』紙に引用「和田久太郎意見陳述」

和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べているが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズアップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』の<酔蜂・和田久太郎>一九五七年。「関東大震災のとき大杉…

黒色青年連盟

以前からデータを補足するつもりでそのままになっていた「設立」経過に関する官憲側の資料。 『アナーキズム』続・現代史資料、みすず書房刊より <二六年二月 「黒色青年聯盟に関する調 警保局保安課 一月二日牛込区横寺町芸術倶楽部 近藤憲二外十九名の無…