「二十六日夜半」金子文子 その弐

 其処で私は今日申した通り自分が何主義だか何思想だか知らない。私が知って居る事は「自分は斯ふ思って居る」と云ふだけ。しかし若し此処までの私の考え方に便宜上ちょっと客観的に断定を下して置いて見るなら、私は多分個人主義無政府主義者と呼んで差し支へなからうと思ひます。何となれば説明するまでもなく、国家と個人とは相容れない二つの存在である。国家の繁栄の為には個人は自分の意志をもってはならない。個人が自身に目覚める時、国家は倒れる。無論私は内から燃え上がる秩序からなる秩序、否其の秩序以外に、国家だの政府だのの干渉をお断りしたいのです。

 私は只斯ふ云ふ丈です。
『昨日自分は斯ふ思ふって居た。だが、今日自分は斯ふ思ふやうになった。自分は自分によりしっかりと合った道を見出した。だから自分は今、其の新しい道へと胸を張って突き進んで行かうとするのだ』とね。
 つまり、私は、立ち止って自分の足跡を振り返って其の時其の足跡の一つ々々が、自己意識のクライマックスを示す烙印である事を、自分に対する唯一の義務だ、と思ってるのです。で、私は、自分の考へて居る事は、何処までも頭の及ぶ限り疑います。疑はうとして居ます。其れは自分の為です。