[文献]著作・編集・執筆「書目」一覧。

日々の記事は「エントリー」からアクセスかスクロールして参照をしてください。2004年4月20日 『日本アナキズム運動人名事典』発行。 『日本アナキズム運動人名事典』(内容案内、項目の一部にリンク) 『日本アナキズム運動人名事典』編集・項目執筆 『中濱…

1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

シン・チェホ 1880年12月8日<旧暦換算同年11月7日>- 1936年2月21日<旧暦換算同年1月29日> 歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動、 アナキズム運動の中心で活動。北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年頃北京大学の中国人教授、アナキストの…

1911年1月24日、東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分 新美卯一郎 午前8時55分 奥宮健之 午前9時42分 成石平四郎午前10時34分 内山愚童 午前11時23分 宮下太吉 12時16分 森近運平午後1時45分 大石誠之助 午後2時23分 新村忠雄 午後2時50分 松尾卯一太 午後3時28分 古河力作 午後3時58分 処刑  宮下太吉、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。管野須賀子は翌25日に処刑。

[アナキズム運動史]1925年1月20日 後藤謙太郎の死

1「一月二十二日の日も暮れたときである。私が運動社の近くの露地まで帰ると、医師奥山伸先生の懐中電灯の案内で、村木が担架で社へ運びこまれるところであった。 …病床には、延島英一君母子、岡本文弥、村木が横浜で牛乳配達のころから世話になり懇意にして…

[アナキズム運動史]1911年1月18日

幸徳秋水ら 24名に死刑判決 大審院、24名に有罪判決、新村善兵衛、新田は爆発物取締罰則のみ認定、「大逆罪」を承知していたという調書は信用できないとされた。大審院の審理は形式的で、政府の意を受け刑法73条適用、取調、予審訊問をコントロールした検事…

[日誌]

安重根の獄中記

「アナキズム運動史」1908年1月1日 『高知新聞』幸徳秋水「病間放語」掲載 

「文明の日本、戦勝の日本、樺太を占領し、朝鮮の保護するの日本、三井と岩崎の日本においても革命はたしかに活ける問題なり」「フィリッピン人・ベトナム人・朝鮮人中、また気概あり、学識ある革命家、けっしてすくなきにあらず。彼らの運動が単に一国の独…

[アナキズム運動史]1924年12月22日 中濱哲 獄中にて詩作

髑房小景 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/nakahama-poem-dokubou.html艶消し戀我のビイルデイング 社會傳染病院の隔離室──冷蔵庫 三疊の板敷き床とん 便箱龜 福壽草 味噌摺鉢にて面洗へ!ゴザ一枚御座る 處方箋決定ナイヒリスチツク アナクロ、コンミニユズム…

[アナキズム運動史]1913年12月22日 

大杉栄 <大久保より> 「……医者の厳命によって、まだ床に就いている。……師復という人から、エスペラント文の手紙が来た。…」 『近代思想』1月号

[アナキスズム運動史]1908年12月21日。大条、平民社(巣鴨)で幸徳秋水より『麺麭の略取』を受け取る。

[アナキズム運動史]1910年12月19日。大逆事件、幸徳秋水らの意見陳述

20日、幸徳らの意見陳述、22日、幸徳らの意見陳述、補充審問を終え、23日、弁護人の証拠調べ、24日、弁護人の証拠書類閲覧、鶴裁判長は弁護側の証人申請を却下した。25日、検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。27、28、29日、弁論。28日に幸徳の母は中村に…

[アナキズム運動史]1920年12月10日 日本社会主義同盟結成 

午後6時26分 大杉栄、入京神田青年会館に開催せる自称社会主義同盟講演会に臨みたるが直ちに公安を害するものと認め錦町警察署に検束せられたるも即時釈放

[アナキズム運動史]1910年12月10日 大逆事件開廷

幸徳秋水らの大逆事件、特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述、12日、管野、古河、新村善兵衛、幸徳の意見陳述、13日幸徳、森近、奥宮、大石、高木、峯尾、崎久保、成石兄弟の意見陳述、14日、松尾…

1910年11月22日 エマ・ゴールドマン、幸徳事件、エマ・ゴールドマン、ニューヨークで「幸徳事件」への第一回抗議集会を開く、数百名が出席、「ニューヨーク・アピール」を採択、

1938年11月22日 萩原恭次郎、病死 午前零時15分、溶血性貧血(胃病)にて死亡。享年40。翌23日葬儀。 「萩原恭次郎の世界」

1924年11月15日 難波大助、天皇国家により処刑される。

難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検束される1899年11月7日1924年11月15日。山口県熊毛郡周防村大字立野第1011番地(現・光市立野1011番地)父難波作之進、母ロクの四男。1919年9月、東京の困窮…

『解放空間のアナーキスト』

80台掻革命家が回考する解放空間のアナーキスト http://book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=5011750 翻訳ソフトによる翻訳をそのまま掲載しています。 この本は現在韓国アナキズム運動の生き証人と呼ばれるアナーキスト李ムンチャンが 8・15 解放以…

『解放空間のアナーキスト』

解放空間のアナーキスト>発行した李ムンチャン 1945年 8・15解放の喜びも少しの間, その年 12月モスクワ 3サングフェウィでの信託統治決定は十八青年の胸に火をつけた. 坐臥右で分けられて刃が立った対立をする政治現実に絶望した青年は純粋な革命的民族主義…

1922年11月8日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛。

「…おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様…

1919年11月7日。 

和田久太郎、中村還一、大杉栄らの「労働運動社」の活動のため京阪地方に赴く。

1913年11月7日。 

大杉栄、山本飼山の葬儀参列。 「荒畑寒村による<大久保より> 「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……盛…

1925年11月6日。望月桂、近藤憲二、秋田刑務所の和田久太郎に面会。

<参考>『大正自由人物語』小松隆二。1928年2月22日、和田久太郎の遺体引取り。 望月桂、近藤憲二の二人は昼一二時ニ〇分に秋田駅着。以下、小松による和田死去の日の状況が述べられている。「和田の急死は秋田刑務所の記録では監房にて午後七時に縊死(自殺…

1926年11月5日。 

金子文子の遺骨、朴烈の故郷の山中に埋葬される。 金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2…

1927年11月4日。

『黒色青年』14号「東北黒色青年連盟演説会」 10月31日、我等は結盟の日を機とし、自由連合組織、無政府共産主義に就いての演説会を開催した。 関東黒色青年連盟よりは10数名の同志が応援し、黒旗は奥羽の空に北風となびく。 我等が絶叫の足跡は、東北の地の…

1909年11月3日 宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆

1908年11月3日 宮下太吉、内山愚童制作『無政府共産』50部を郵送で受け取る  

虹の彼方と烈風

1922年11月1日 大杉栄ら『労働運動』9号発行

印刷人 近藤憲二(労運社住所と同) 主要記事<革命の研究6>大杉栄<編集室から>■逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、…

1922年10月31日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「執筆状況」>

大杉栄より伊藤野枝宛 「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。 きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ…