2008-04-01から1ヶ月間の記事一覧

1923年4月30日。大杉栄「パリの便所」(後に『日本脱出記』に収録)原稿を書き上げる

1920年4月30日『労働運動』第5号発行。<労働運動の転機> 大杉栄 <無政府主義の腕> 大杉栄 「マラテスタの逮捕に関して」

1925年4月29日。中浜哲、公判での「被告人調べ」

1923年4月29日。大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う

1923年4月28日 「夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞意してひそかにまたパリにはいった。」大杉栄書簡より

1925年4月27日中浜哲等の公判が始まる、予審決定書の一部を朗読、開廷10分で同志や一般傍聴者を排除し、当局関連の傍聴者だけで調べを進めた。

東京日日新聞 3.8 《三越三菱等の重役を脅迫して百、二百、時には数千円ゆすった古田、倉地等の犯行》 ■爆弾事件の一味倉地啓示、古田大次郎等の逮捕により元東京深川の自由労働ギロチン社一味が東京大阪を跨にかけて白昼大会社大商店をおそい恐るべき掠奪や…

1924年4月27日石川三四郎、新居格「フェビアン協会」に参加

1911年4月26日 大杉栄、同志茶話会に出席、神楽坂倶楽部

1915年 4月25日。<状勢>中村勇次郎は「平民新聞」廃刊の已無むなきに至や大杉栄、荒畑勝三等と相謀り出版物発行の計画を為し4月25日「解放」と題して第一報を発行「平民新聞」の廃刊を惜しみ「近代思想」中より大杉栄執筆の「生の創造」を転載 <官憲資料>

1921年4月24日。大杉栄、週刊『労働運動』9号 <駿河台から>■大杉は一週間に一度位は社に来る 最終記事面に住所が記載される

1919年4月23日。大杉栄、伊藤野枝と共に千葉県…葛飾村斎藤仁方に移転し…

下高井戸シネマ「遙かなる記録者への道―いのちの文化を求めて―」

<優れたドキュメンタリー映画を観る会 vol.21」> 4/19(土)〜4/26(土)モーニング&レイトショーにて日替わり上映! 下高井戸シネマ 9.11ー8.15 日本心中 ◆'06年モントリオール世界映画祭正式招待作品 (2005年/日本/2h25) *プロジェクター上映 監督:…

「トスキナア」第7号目次ビートルズを聴かないオレが、 どうやってビートルズ・レポートを読めばいいのか? 津田 透 寺山修司の周辺で — 一九七〇年の南平台アップルハウス 川口秀彦 香具師と社会主義運動考ノート その6 猪野健治 谷静湖と石川啄木(6) お…

1915年4月20日。『微光』第7号発行。白山前町38番地

1923年4月19日。大杉栄、林倭衛に手紙を書く。

1906年4月18日。サンフランシスコ大地震発生、幸徳秋水は相互扶助の実践を知る

宮崎晃著『差別とアナキズム──水平社運動とアナ・ボル抗争史──』より第六章 アナ『全水解放聯盟』の結成と活動

1925年10月「全水青年聯盟」第一回協議会開催、京都の全水水平学校講堂 1926年8月28日全水有志大会現神戸市で開催(部落問題研『水平運動史の研究』年表篇) 1926年10月「全水解放連盟」の創立(「大原労働年鑑説」)宮崎「人によつてはこれが創立準備会ではなく…

「抹殺社」1921年1月結成、久保田順、加藤昇は平野小剣らの「立憲労働党員」。『労働運動』1921年3月20日第七号、「抹殺社一味」<2,3ヶ月前から大道で呼売りしていた『大眼目』という小冊子を見ると、かれらの主張がわかる。それは、一種の国家社会主義だ。もっとも西園寺邸の一件や東宮外遊延期の祈願を行ったりしたのは、何主義によったものか、僕は知らない。自由協会、学生連盟、純労会、自由労働者組合の落武者に、ある信用のない元社会主義者が加わって、出来上がった団体である。>

実は14,5名の青年の集まりであるらしい。…幹部の北一輝君は、数年前『純正社会主義』及び『国家論』という著述を出して、発売禁止をうけ、その後久しく中国に行っていた人物だ。『大眼目』は、北君の書いたもので、署名は何故か角田清君[←原文のママ・清彦]…

宮崎晃の著作『差別とアナキズム──水平社運動とアナ・ボル抗争史──』より第一章 木本凡人とアナ系未解放部落運動の胎動──水平運動の関西先駆者──

第二章 平野小剣の行動と限界──平野小剣アナキスト説の誤謬── 一 深川武による水平運動の分類 二 平野セクトの成立と衰退 三 平野小剣と自伝『水平運動に走るまで』 四 小剣を訪れた社会運動への転機 五 平野アナキスト説の誤謬 六 信友会における普選派の消…

第三章 関東水平社の沿革と全水の分断

一 初期水平社創立と世良田事件 「関東水平社」結成の源泉となったものは、ふたつあって、ひとつは、全水の栗須七郎が、全水創立の年、オルグの目的で、群馬県[]に住む、独学力行のひとで、十六年間、県内、東京、山梨などで教員、校長を歴任、教職をしりぞ…

『水平の行者 栗須七郎』

後に成人して作家となった鄭承博は水平道舎の書生の一人であった。 栗須七郎の名は従来の水平運動史に関わる書籍でもごく簡単に出される程度であった。それは『水平社伝説からの解放』朝治武、黒川みどり、関口寛、藤野豊共著(かもがわ出版、02年刊)、 『差…

『水平の行者栗須七郎』を語る←外部リンク

1926年4月16日。刑死した中浜哲の遺体引取りに関し「遺言により布施弁護士は16日夜半遺体引き取りに赴いた」[17日の大阪朝日新聞]大阪刑務所(若松支所か?)に向かった布施辰治弁護士は、中浜哲の控訴審を担当していた。

1913年4月16日。日比谷公園内霞亭、同志集会 日比谷公園機械体操場の茶屋、堺利彦、野澤重吉の発起平民会 集まる者40余名、大杉栄参加

1926年4月15日中濱鐵午前10時に絞首される。

<参考>『黒色青年』紙より。『1926 5月初旬 《関西黒旗連盟》成立 「関西に輝く黒旗の光り」《関西黒旗連盟》 『黒色青年』4号 相続いて関西の同志は一人、二人と或る者は長い既決囚へ、或る者はギロチンへの尊い犠牲が払われて行った。そして密かに大衆…

1919年4月14日。金子文子、山梨、塩山駅に着く。金子文子16歳で朝鮮を去る(12日)。

1914年4月14日。大杉栄、幸徳事件被弾圧者へ救援活動。坂本清馬宛に手紙を発信、16日に坂本は手にする。

大杉栄は<坂本の姉が心配しているとして司法省に谷田監獄局長を訪ね、局長と典獄から二件の許可を得る。<書籍差入れを大杉が受持つ、坂本からの書信は交互に大杉栄と坂本の家族に発信する、大杉栄と坂本の家族も交互に発信する>

1909年4月13日。宮下太吉、クロポトキン著幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文する。

1919年4月12日。金子文子、16歳で朝鮮を去る。14日塩山駅に着く。

1926年4月11日。村木源次郎、斎藤光太郎の追悼会開かれる。

横浜印刷工組合、横浜自由労働者組合、凡人社主催で故村木源次郎、斎藤光太郎君の追悼を兼ねて11日、京浜の同志相会した。100名ばかりの警官護衛で、男女老幼家族一同100名余り、汐干狩りとしゃれた。『黒色青年』第二号