2007-09-01から1ヶ月間の記事一覧

映像を視る。

チェジュ島の映像に「いとしのクレメンタイン」の曲が流れ、ナレーターが詩の朗読を続ける。映像はキム・シジョンのアップ。 望郷の海…そして在日を生きた長い歳月までもが海鳴りの中にあった。風はいつも海の深いためいきからもれてくる。 タイトル 映像は…

成田龍一『大正デモクラシー』

当然ながら今井清一の『大正デモクラシー』以降の歴史研究あるいは論争の経過、成果を踏まえ書かれている。項をたてての「被植民地への眼差し」はその結果であろう。しかし関東大震災後の記述は後退している。社会運動の記述ではコミュニズム史観としかいい…

1924年9月30日。ギロチン社、山田正一、大阪の武田伝次郎宅で逮捕される。中浜哲の脱獄作戦に関与したとされる。

ハイビジョン特集「海鳴りのなかを〜詩人・金時鐘の60年〜」BShi 再放送の案内

以下、紹介データはNHKウェブサイトより。NHKのアップが何時までかは定かではありません。全文引用。 http://www3.nhk.or.jp/hensei/program/p/20071003/001/10-1400.html 放送日 :2007年10月 3日(水) 放送時間 :午後2:00〜午後3:50(110分) 金時鐘さん…

文献、『日本の歴史 大正デモクラシー』23 改版中公文庫 今井 清一 著出版社名 中央公論新社 出版年月 2006年7月 税込価格 1,300円

関東大震災後の記述に力点がおかれている「ギロチン社」に触れていたことは予想外であったが、「テロリズム」と括られている。しかし「目的が摂政宮」という記述はあり、裁判で述べることができなかったとも書かれている。 金子文子・朴烈への弾圧にも触れて…

仕事と仕事の合間の日。前日、ようやく購入した『日本近代文学館年誌』も読む時間なく「放置」。中濱の暗号文通信が写真版で掲載されている。

日本近代文学館に年誌を購入に行く

1924年9月27日。ギロチン社、倉地啓司、大阪で逮捕される。

『トスキナア』誌六号、責了。皓星社にて三時過ぎから六時ころまで校正。筆者の皆さんご寄稿ありかとうございました。10月10日ころには印刷、製本があがる予定。

1915年9月25日。野澤重吉死亡。

1923年9月24日。不呈社、新山初代検挙される。

新山初代[人名事典、執筆項目より] 1902?年?-1923年11月27日 東京府立第一高等女学校2年で父親が死去。肺病になり、新潟で半年間静養、生死の問題に悩んで仏教を研究。1920年3月、女学校を優等で卒業後、正則英語学校夜学に通学、金子文子と知り合い、後に…

一日仕事でした。

1925年9月22日、刑法第73条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件予審掛東京控訴院判事立松懐清……予審調書第5回

予審判事、立松懐清から刑法73条に該当する内容と確認を求められ金子文子は「反省する余地は有りませぬ」と答える

1910年9月22日<赤旗事件>実刑判決により東京監獄に収監されていた堺利彦が出獄する。

1925年9月21日、刑法第73条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件

第4回1925年9月21日、東京地方裁判所にて、立松懐清予審掛東京控訴院判事立松懐清…「朴と同棲後の生活方法」<朝鮮人参を売ったり会社ゴロ> 「どんな人が被告等に好意を有って補助して呉れて居たか。」 「有島武郎辺りです」<生活費>

所用で多摩川沿いの施設に自転車で向かう。往復1時間10分程度。夜は「トスキナアの会」初校が出て六号の制作は予定とおり進む。自転車で行きは30分、帰りは22分で自宅まで戻る

所用で月島に赴く。

1925年9月19日。和田久太郎書簡[望月桂宛]

「特別許可を願って、正札附、最後の手紙を書く。昨日は古田君と面会した。 別に話すべき事のあらう筈がない。馬鹿話をして愉快?に握手して別れた。 今日、これから愈々執行になる。行先は未だ告げられない。 今朝、近藤君と岩佐君とが面会に来てくれた。十…

長野県川上村の「天狗山」1880mに登る。秋の空に八ヶ岳連峰、赤石山脈が映える。レタス畑の色調が鮮やかである

1925年9月18日。和田久太郎獄中書簡[近藤憲二宛]

「新谷、倉地の二君は検事控訴の由。それから、僕の行き先へ最初に来てくれる時、望月君も、一緒に引つ張つて来てくれ。例の引受人を、若し出来れば、やつぱり二人にして置きたい。…」「今日もまた雨だね。古田君とはまだ会はない。…」

日野春に午後2時過ぎ到着。急遽誘われて某美術館で知人の水彩画の個展を未に行く。夜は八ヶ岳山麓の農家に宿泊。

古田大次郎『獄中手記』より。<附言>

未決中の乾燥記は、この第三十二冊で止めになる。これからのが本当の「死刑囚の獄中記」だ。 最初、この感想録は二十五冊位で終りになるだらうと思つてゐた。所が裁判の…

1925年9月17日。古田大次郎『獄中手記』より。愈々今日迄だ。明日から外の三君は赤になる。僕は灰色だ。いつ永遠に消えるとも解らぬ灰色だ。人並みに見る浮世の光も今日限り。思へば一寸淋しい気もする。

自分の死ぬ事計り考へてゐる所為でか、今日古河君に会つて、「昨日追悼会をやつた。」と聞いた時誰のか解らなくつて、僕達のにしては莫迦に早いなアと変に思つた。で「誰の追悼会?」と聞き返した位だ大杉の死を決して忘れた訳ではないのに余程頭が如何かして…

「和田久太郎意見陳述」『労働運動』紙掲載

和田久太郎が福田雅太郎を狙った理由は本人が意見陳述で述べているが、これまで「大杉栄虐殺への復讐」という部分だけがクローズアップされてきた。秋山清の記述も例外ではなく『ニヒルとテロル』の<酔蜂・和田久太郎>一九五七年。「関東大震災のとき大杉…

1923年9月16日。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一虐殺さる。

戦友の死「大杉栄、伊藤野枝両君が、去る九月十六日、橘宗一君と共に東京憲兵隊本部で虐殺された事は、既に諸君の熟知せるところである。 同志諸君! 我等が常に、友人として、先輩として、且つはまた我等の有力なる同志として、相励まし相親しんでゐた大杉、…

1925年9月16日。古田大次郎『獄中手記』より「大杉君の命日だ。僕は今日迄生きられゝばいゝと思つてゐたが、まだまだ生命がある。今日もいゝ天気だ。しかし、死ぬには余り明るすぎる。前には午前十時頃に死にたいと言つたが、朝の中は如何も暑苦しい、ケバケバし過ぎる感じがして厭だ。矢張り夕方がいゝ。今日の夕方なんか実によくなりさうだ。」

「山崎さんからの手紙で、愈々検事控訴はないと解つた。大安心。 これで万事決まつたのだ。 予想通りいゝ夕方だ。 しかし、死ぬには余り淋し過ぎる。 贅沢な事計り言つてる。なら何時がいゝのだらう。朝は落付かないから厭、夕は淋し過ぎるから厭、まるで女…

1925年9月15日古田大次郎「獄中手記」

近頃、死ぬ時は夕方であつて欲しいと思ふやうになつた。以前は朝の中にと思つたのだが。葬る時も夕方がいゝ。墓は夕陽がよくあたるやうにして欲しい。 岩佐君が来て、是非妹達に会つて行けと言ふ。僕もさう考へてゐた所だから、遂に会ふ事に決めた。 布施さ…

1925年9月14日。古田大次郎『獄中手記』「厭に、永久に永久にと言ふ。だがその言葉の意味は、ハッキリ僕には解らないのだ。只言つて気持がいゝからヤタラに使ふ。それだけなのだ。

布施弁護士から、ハッキリ外界の諸君の意見を聞く事が出来た、控訴は殆んど一人の反対もなしに、中止したがいゝとなつたさうだ。有難い。僕は感謝の念を禁ずる事が出来ない。外の三人も同様だらう。 検事の控訴もないらしい。さうなれば愈々、この三、四日の…

『日本近代文学館年誌』が15日に発行されるが、未刊の和田久太郎書簡などギロチン社周辺史料が100頁近く翻刻され収載される

1925年9月13日。古田大次郎「獄中手記」9.13 (日曜日) 

「死んでからも世の中の事を見る事が出来るような気がする。それも、遠い遠い所からだ、遠い遠い所から豆粒のように小さい人間や、玩具のような家などがチャンと見えるような気がする、死というものが不思議になってくる、解らなくなってくる…」