1923年9月24日。不呈社、新山初代検挙される。

futei2007-09-24

新山初代[人名事典、執筆項目より]
1902?年?-1923年11月27日 
東京府立第一高等女学校2年で父親が死去。肺病になり、新潟で半年間静養、生死の問題に悩んで仏教を研究。1920年3月、女学校を優等で卒業後、正則英語学校夜学に通学、金子文子と知り合い、後に不逞社に参加。金子は「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語っている。新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。22年11月肺病のため、母、妹二人と別生活を余儀なくされ、本郷区駒込蓬莱町18<当時の労運社と至近距離、現文京区向丘2丁目>に一戸を構え独立、雑貨菓子商を始める。

 学校を出てから婦人問題、政治問題、個人主義の思想を持つようになる。気分としては「ダダイズム」、「また対象物なき叛逆の気分は学校に居る時分から只今まで自分につき纏っております」と逮捕後の予審で述べる。金子は3ヵ月くらいで学校を退学、世田谷池尻で朴烈と同棲をしていた。その金子から来信があり、二、三度訪ねるが交流は一度途絶える。23年5月再開後、朴烈、金子文子らの不逞社に加入、例会や講演会への参加と活動的になる。 7月末には大杉栄を訪ね、8月6日の黒友会<会場は新山宅>での講演を依頼する。当日大杉は現れず、仲間たちと会の運の話しになる。仲間の朝鮮からの留学生、金重漢と恋愛関係になる。朴から金への爆弾入手依頼での行き違いから朴と金の仲は険悪になり、8月中旬、新山も金子、朴烈と決別、新山は雑誌『自擅』を金と共に発行。8月18日の自由人社での大杉のフランスでの活動報告を聴きに行き、20日、根津での大杉呼びかけによるアナキストの同盟を目論んだ集まりにも参加。[いずれも朴、金子は不参加]。関東大震災直後、9月3日、朴烈、金子への保護検束を 名目とした連行を始めとし、不逞社の仲間への取り調べ、逮捕が続く。新山も9月24日、警視庁特高刑事に連行され、関連して治安警察法違反の容疑で逮捕、取り調べで病気が悪化、危篤状態で釈放。11月27日未明、芝の協調会病院で死去、22歳であった。28日獄死という報道もある。12月2日、母親、妹たちと女学校の同級生1人だけの寂しい葬儀が行われたと新聞は伝える。不逞社の他の仲間は1年程の拘束の後、最終的には免訴。金重漢だけは爆発物取締罰則で3年程の実刑判決。朴烈、金子は刑法73条<大逆罪>で予審<取り調べ>が続き起訴され、死刑判決から無期懲役に「恩赦」減刑。金子は26年7月自死。  
 新山は大震災前の8月、朝鮮人の同志金との恋愛、雑誌発行、大杉の話を積極的に聞くという状況であった。父親を亡くし、自らは肺病でありながら働く女性、タイピストとして自立し、なおかつ家族の生活援助という環境でのアナキズム活動への参加であった。金との恋愛もありニヒリズムの影響を離れアナキズムを広く理解しようとしていたのではないか。年齢若く、逮捕2ヶ月で獄死という活動時期も短い故、多くの仲間には知られなかったが、女性として当時の社会の矛盾を一身に引き受けつつ、より根源的な社会変革に関わる可能性を秘めて いたアナキストであった。
[文献]小松隆二編・解説「朴烈・文子事件主要調書」『続・現代史史料3アナーキズム』1988年刊、みすず書房。『朴烈・金子文子裁判記録』<『黒涛』『太い鮮人』『現社会』復刻版収録>1991年刊、黒色戦線社。金子ふみ子著、栗原一男編『何が私をかうさせたか』1931年刊、春秋社。 [資料]マイクロフィルム版『東京日日新聞』1925年11月、『報知新聞』1923年12月