2008-01-01から1年間の記事一覧

[アナキズム運動史]1924年12月22日 中濱哲 獄中にて詩作

髑房小景 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/nakahama-poem-dokubou.html艶消し戀我のビイルデイング 社會傳染病院の隔離室──冷蔵庫 三疊の板敷き床とん 便箱龜 福壽草 味噌摺鉢にて面洗へ!ゴザ一枚御座る 處方箋決定ナイヒリスチツク アナクロ、コンミニユズム…

[アナキズム運動史]1913年12月22日 

大杉栄 <大久保より> 「……医者の厳命によって、まだ床に就いている。……師復という人から、エスペラント文の手紙が来た。…」 『近代思想』1月号

[アナキスズム運動史]1908年12月21日。大条、平民社(巣鴨)で幸徳秋水より『麺麭の略取』を受け取る。

[アナキズム運動史]1910年12月19日。大逆事件、幸徳秋水らの意見陳述

20日、幸徳らの意見陳述、22日、幸徳らの意見陳述、補充審問を終え、23日、弁護人の証拠調べ、24日、弁護人の証拠書類閲覧、鶴裁判長は弁護側の証人申請を却下した。25日、検事論告、大逆罪として全員死刑求刑。27、28、29日、弁論。28日に幸徳の母は中村に…

[アナキズム運動史]1920年12月10日 日本社会主義同盟結成 

午後6時26分 大杉栄、入京神田青年会館に開催せる自称社会主義同盟講演会に臨みたるが直ちに公安を害するものと認め錦町警察署に検束せられたるも即時釈放

[アナキズム運動史]1910年12月10日 大逆事件開廷

幸徳秋水らの大逆事件、特別裁判開廷、検事総長冒頭陳述、それに基づく被告訊問と陳述が続く。宮下、新村忠雄の意見陳述、12日、管野、古河、新村善兵衛、幸徳の意見陳述、13日幸徳、森近、奥宮、大石、高木、峯尾、崎久保、成石兄弟の意見陳述、14日、松尾…

1910年11月22日 エマ・ゴールドマン、幸徳事件、エマ・ゴールドマン、ニューヨークで「幸徳事件」への第一回抗議集会を開く、数百名が出席、「ニューヨーク・アピール」を採択、

1938年11月22日 萩原恭次郎、病死 午前零時15分、溶血性貧血(胃病)にて死亡。享年40。翌23日葬儀。 「萩原恭次郎の世界」

1924年11月15日 難波大助、天皇国家により処刑される。

難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検束される1899年11月7日1924年11月15日。山口県熊毛郡周防村大字立野第1011番地(現・光市立野1011番地)父難波作之進、母ロクの四男。1919年9月、東京の困窮…

『解放空間のアナーキスト』

80台掻革命家が回考する解放空間のアナーキスト http://book.naver.com/bookdb/book_detail.php?bid=5011750 翻訳ソフトによる翻訳をそのまま掲載しています。 この本は現在韓国アナキズム運動の生き証人と呼ばれるアナーキスト李ムンチャンが 8・15 解放以…

『解放空間のアナーキスト』

解放空間のアナーキスト>発行した李ムンチャン 1945年 8・15解放の喜びも少しの間, その年 12月モスクワ 3サングフェウィでの信託統治決定は十八青年の胸に火をつけた. 坐臥右で分けられて刃が立った対立をする政治現実に絶望した青年は純粋な革命的民族主義…

1922年11月8日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛。

「…おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様…

1919年11月7日。 

和田久太郎、中村還一、大杉栄らの「労働運動社」の活動のため京阪地方に赴く。

1913年11月7日。 

大杉栄、山本飼山の葬儀参列。 「荒畑寒村による<大久保より> 「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……盛…

1925年11月6日。望月桂、近藤憲二、秋田刑務所の和田久太郎に面会。

<参考>『大正自由人物語』小松隆二。1928年2月22日、和田久太郎の遺体引取り。 望月桂、近藤憲二の二人は昼一二時ニ〇分に秋田駅着。以下、小松による和田死去の日の状況が述べられている。「和田の急死は秋田刑務所の記録では監房にて午後七時に縊死(自殺…

1926年11月5日。 

金子文子の遺骨、朴烈の故郷の山中に埋葬される。 金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2…

1927年11月4日。

『黒色青年』14号「東北黒色青年連盟演説会」 10月31日、我等は結盟の日を機とし、自由連合組織、無政府共産主義に就いての演説会を開催した。 関東黒色青年連盟よりは10数名の同志が応援し、黒旗は奥羽の空に北風となびく。 我等が絶叫の足跡は、東北の地の…

1909年11月3日 宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆

1908年11月3日 宮下太吉、内山愚童制作『無政府共産』50部を郵送で受け取る  

虹の彼方と烈風

1922年11月1日 大杉栄ら『労働運動』9号発行

印刷人 近藤憲二(労運社住所と同) 主要記事<革命の研究6>大杉栄<編集室から>■逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、…

1922年10月31日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「執筆状況」>

大杉栄より伊藤野枝宛 「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。 きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ…

1914年10月30日 大杉栄『生の闘争』刊行

1916年10月28日大杉栄「立太子礼」に向けて悪戯の相談

官憲資料より 大杉栄……近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞す…

 赤い表紙の国禁の書が古書店より届く

石川啄木 あかがみの 表紙手擦(てず)れし 国禁(こくきん)の 書(ふみ)を行李(かうり)の底にさがす日

1922年10月27日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「ボルシェヴイキ四十八手裏表」>

大杉栄より伊藤野枝宛書簡 「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……久公といえば、おとといの晩ある会合で、怪しからんうわさを聞いた。それは、僕が静ち…

台高山脈・三峰山

1922年10月24日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「ボルの暴政」

大杉栄より伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって <革命の研究>と <ボルの暴政>を書いたんで、 きょうはうんざりしてしまった。そして、朝馬鹿にいいお天気なもんだから、飯を食うとすぐみんなを誘って植物園へ行った。……」

1922年10月21日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「自叙伝」執筆> 

大杉栄より野枝書簡 「……一昨日ちょっと服部へよったら……こっちはまたその前夜一晩徹夜して <自叙伝>を30枚ばかり書いたので、 風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ。それで一休みしようと思って、きのうは上天気を幸いに、大ぶ…