2008-01-01から1年間の記事一覧

1922年10月17日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「原稿」>

大杉栄、野枝宛書簡 「……風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって 『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、…… きのう、江口の家の家主の婆さんが来て、家賃を払ってくれないから何とか話してくれと言って、いつまでもくどくどやる上にオイオイ泣き出…

1925年10月15日 古田大次郎処刑される

9月10日、東京地裁、死刑判決。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、古田は死刑を受け入れ、控訴せず1925年10月15日午前8時25分、絞首される。古田の純真な思いが表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。続けて『死刑囚の思い…

青山霊園

『トスキナア』8号発行 2008年10月15日

目次 ■大槻憲二と伊藤整とアナキズム 曾根博義 ■松井不朽――名古屋経済界の異端児 「天皇とタバコは日本を滅ぼす」 マックス 中川 ■ 遠藤斌さんの思い出 小松隆二 ■ 遠藤さんのスペイン戦争 真辺致真 ■ 〔まさじいの頁〕8 ボロテン『スペイン内戦』刊行に寄…

ロシア侵略・日帝侵略の痕跡

日帝の侵略痕跡

1931年10月10日

萩原恭次郎、第二詩集『断片』を渓文社より出版。

1923年10月8日。新山初代、本郷区駒込蓬莱町18、雑貨菓子商、22歳、母と妹二人、大正9年3月、東京府立第一高等女学校を卒業、後三カ月程、正則タイピスト学校に通う約2年程事務員、その間1年程正則英語学校、夜学に通学、昨年8月事務員を止めて、同年11月駒込に一戸を構え独立して商売を始めた。

母と別れて、一戸を構えた理由は私が肺が悪いため家族へ伝染を恐れたのと、私の気分として一人で居りたいというためとであります。2、私は16歳頃から死というものを考え始めました。死の問題から思想上の問題を考える様になりました。女学校に居る頃は、国…

1919年10月6日 大杉栄『労働運動』創刊

大杉栄『労働運動』第1号発行 本郷区駒込曙町13 大杉栄執筆原稿 <労働運動の精神> <賀川豊彦論> <読者諸君へ>「中村還一、年二十二、時計工、和田久太郎、二十七、人夫、新聞紙違反で十ヶ月の牢獄生活を終えて出て来たばかり 近藤憲二、二十五、早稲田…

1919年10月5日。大杉栄、午後5時 築地精養軒 山崎今朝弥開催 晩餐会に出席。「晩餐会は本年8月8日より一週間平民大会に於て自己主催の下に開催せる夏季講習会に関する講師竝に尽力せし者に対し慰労」

1913年10月5日。大杉栄、シンヂカリズム研究会開催。「会する者総て13名、大杉は講話、資本家と労働者」

1926年10月3日。黒色青年連盟・東海連盟、清水にて発会記念演説会を開く。記事「黒旗の下に」《東海連盟》清水、10月3日。「」『黒色青年』6号掲載。1926年12月1日発行。

1922年10月2日。朴烈、大島製鋼争議支援。

1919年10月2日。大杉栄、巡査殴打事件第二回公判。弁護士花井卓蔵、大澤一六、長野■助、山崎今朝弥、布施辰治の5名出廷。被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…

1912年10月1日大杉栄、荒畑寒村 『近代思想』創刊 幸徳伝次郎発行『自由思想』の購読者名簿に拠り各地方の同志に対し葉書を発送して該雑誌の購読を勧誘大杉栄テキスト<本能と創造>評論<発刊事情><9月の評論>

1922年10月1日『労働運動』8号刊行

<革命の研究5>大杉栄 <編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十三日 栄」 <独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 <労農ロシヤの承認> …

1915年9月25日 野澤重吉死亡

野澤重吉肖像 大杉栄による野澤重吉への献辞 左頁 大杉栄による野澤重吉への献辞 拡大 『労働運動の哲学』カバー 『労働運動の哲学』表紙 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」1頁 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」2頁め3頁 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」4…

1923年9月24日不逞社のメンバーで金子文子の同志、新山初代が逮検挙される。新山初代。1902?年?-1923年11月27日。東京府立第一高等女学校2年で父親が死去。肺病になり、新潟で半年間静養、生死の問題に悩んで仏教を研究。1920年3月、女学校を優等で卒業後、正則英語学校夜学に通学、金子文子と知り合い、後に不逞社に参加。金子は「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語っている。

新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。22年11月肺病のため、母、妹二人と別生活を余儀なくされ、本郷区駒込蓬莱町18<当時の労運社…

東京の景観・二本榎

1925年9月19日。和田久太郎書簡[望月桂宛]「古田君と面会した」「特別許可を願って、正札附、最後の手紙を書く。昨日は古田君と面会した。別に話すべき事のあらう筈がない。馬鹿話をして愉快?に握手して別れた。今日、これから愈々執行になる。行先は未だ告げられない。今朝、近藤君と岩佐君とが面会に来てくれた。十一時すぎだと、もう駄目だつたかも知れない。全くいい時だつた。いい天気だね、今日は秋の彼岸だからな──」

1925年9月16日「追悼会「来る九月十六日は、大杉君等が殺された第三周年に当ります。就いては、次の如く、同志諸君と共に追悼茶話会を催すことに致しました。御出席を願ひます。

時 九月十六日午後六時 所 労働運動社 費 拾銭 労働運動社」

1925年9月16日「大杉君の命日だ。まだまだ生命がある。今日もいゝ天気だ。しかし、死ぬには余り明るすぎる。前には午前十時頃に死にたいと言つたが、朝の中は如何も暑苦しい、ケバケバし過ぎる感じがして厭だ。矢張り夕方がいゝ。今日の夕方なんか實によくなりそうだ。

心配する事もなし、悲観する事も恐がる事もないから、別に頭の疲れる訳がないのだが、十日からこの方、晩は實際よく眠れる。いつもよりか眠たい位だ。変わった夢も見ない。過去のこれと言つて特別になつかしい事も出て来ず、家のものたちの事も出て来ない。…

1926年9月16日「9月16日、大杉栄追悼会を労働運動社にて行なう。関西にては解散を命ぜられた」

『黒色青年』6号(1926年12月発行) 同紙に関しては以下のサイトがある。http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/kokushokuseinen.html

1924年9月16日「九月十六日には大杉君、野枝さん、宗一坊の一周年追悼会が、東京、大阪、和歌山、静岡、等各地で行はれた。本号は記事輻輳の為、遺憾ながら其等の盛況を載せ得なかつた。追悼会のあつた各地の同志に、謹んでお詫びします」『労働運動』第六号 1924年12月1日発行

1923年9月16日。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一虐殺さる「戦友の死「大杉栄、伊藤野枝両君が、去る九月十六日、橘宗一君と共に東京憲兵隊本部で虐殺された事は、既に諸君の熟知せるところである。

同志諸君! 我等が常に、友人として、先輩として、且つはまた我等の有力なる同志として、相励まし相親しんでゐた大杉、伊藤の両君は倒れた。我等の運動の尊き犠牲として、遂に我等の戦線に倒れた。我等は両君の死によつて、まことに償ふべからざる大なる寂寥…

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東京

1925年9月10日古田大次郎獄中手記より『死刑の宣告を聞きにゆく日』九月十日! 去年の今日、朝早く、寝込みを襲はれて村木君と僕は、他愛なく警視庁に挙げられて終つたのだ。早いもので、もう一年経つた。因縁の深い今日、刑の宣告を承はりに、さア出掛けるとしようかな。

帰監後、予ての覚悟だつたから、宣告を聞いた後も、怖ろしい事も淋しい事もない。実に静かな気持ちだ。判決が思ひ通りだつた所為か、大変愉快だ。…今日は加藤一夫君が来てくれたので…仮監で和田君に会つた時、和田君は物も言はずに突然手を握つて「しつかり…

1924年9月10日古田大次郎逮捕。古田大次郎、弾圧。上蛇窪の根拠地に刑事を派して内偵させた所、倉知は七月二十八日金策のため下阪して六畳、三畳二間の長屋には古田と村木が潜んで既に製造された爆弾十数個が積み上げられてゐることが判り、万一踏込みが知れるや爆弾を爆発し自殺しかねまじき形成なので刑事は二日三晩といふもの同家を遠巻にして捕縛の方法に苦心の末遂に多少の犠牲者を出す覚悟でいよいよ九月十日午前一時頃刑事部からは土屋、出口、恒岡の三警部及び特高、内鮮刑事部からそれぞれ敏腕な刑事三十名を選び全部変装してこれを

……夜になるとコツコツ 隠れ家の怪 上蛇窪の隠れ家は差配金子峰蔵から七月十五日から一月廿二円敷金三ヶ月分として借り受けたものであるが誰が住んでゐるのか近所の者には顔さへ見せなかつたが…。

アナキズム運動史]1924年9月6日。古田大次郎震災直後からの戒厳令司令官・福田雅太郎宅に小包爆弾を送りつける。爆発するもけが人なし。