1923年10月8日。新山初代、本郷区駒込蓬莱町18、雑貨菓子商、22歳、母と妹二人、大正9年3月、東京府立第一高等女学校を卒業、後三カ月程、正則タイピスト学校に通う約2年程事務員、その間1年程正則英語学校、夜学に通学、昨年8月事務員を止めて、同年11月駒込に一戸を構え独立して商売を始めた。

母と別れて、一戸を構えた理由は私が肺が悪いため家族へ伝染を恐れたのと、私の気分として一人で居りたいというためとであります。

2、私は16歳頃から死というものを考え始めました。死の問題から思想上の問題を考える様になりました。

女学校に居る頃は、国家社会のため有為の事をして死にたいという国家主義の考えを持っておりました。学校を出てから婦人問題政治問題に頭を入れましたが深入りせずに終わりました。ただ今では個人主義の思想を持って居ります。気分としては「ダダイズム」の気分で、また、また対象物なき叛逆の気分は学校に居る時分から只今まで自分につき纏っております。私は余り多く読書をして研究するということを致しませぬ。常に自己と云うものを中心として思索する方であります。

3、私が正則英語学校に通学中、同級の金子文子と知りあいになりました。知り合いになってから3カ月くらいで金子は学校を退学しました。その後金子から新しい生活を始めたから来てくれと手紙が来たので、世田谷池尻の宅に二三度訪ねたことがあります。金子は朴烈と同棲しており、朴烈の直真面目に共鳴したのであって、恋愛関係から一緒になったのではないと申しておりました。

4、その後本年5月まで約1年程、金子と文通も行き来も致しませぬでしたが、本年5月15日頃急に金子に会いたくなって訪ねて行きました。池尻から代々木に転宅しており、探し当てましたが不在のため面会せず、訪問したことを書き置いて参りました。すると金子からその後に遊びに来いと日をして参りましたので5月20日訪れて、その時初めても朴烈に面会致しました。そして思想上の話を交換致しました。朴烈は自分の立場は以前「アナキズム」であったが、今は寧ろ「ニヒリズム」であるという趣旨の話を致しました。私は自分が思想上行き詰まって死にたいということや、人間は将来に依り大きい幸福や希望を持っているけれども、それを感受する頭は一つ、即ち自己だけであるから、現在よりもより苦痛より幸福が来る訳がなく、結局同じ現在を繰り返すに過ぎないから死ねるものなら死にたいということや、他人が社会運動等に興味が持つ気分が知りたいという事等を話しました。私は尚、朴烈に理想の実現は考えて居らぬだろう、叛逆は苦痛に非ずして刹那の真面目な享楽であろうと聞きました処、それも肯定いたしました。私が現在を繰り返すよりは死にたいと言ったに対し、朴烈は、自分も左様、思うが死に就いては叛逆的な直接行動をとりたいともうしました。その日は左様な話をして帰りました。翌日朴烈が私方に来て種々の話の末、友達がたくさん朴烈方に集まるからその仲間に這入らぬかと勧めましたが、明答を与えませぬでした。翌日、朴烈が金子と一緒に私方に参りまして前日の仲間入りを勧誘しましたが、金子が会の性質も判らず勧めても駄目だから会合の時来て見た上、加入してもらえば良いと言葉を添えたので、それに従って会合に出て見様と承知しました。後で聞いたことですが、朴烈夫婦は私方から金重漢の所へ、この日行ったということです。

5、5月27日、その会合がありました。私も通知を受けて出席し、金重漢、崔圭宗?、陸洪均等に初めて会いました。その外、野口品二も居りました。その時は朝鮮衡平社の後援をするということで祝電を打ったり、衡平社激励の文を有志で書くということを相談しました。

6、その翌、28日朴烈が金重漢をつれて私方に参りました、一旦二人が帰ってからまた夜金重漢は一人で来ました。その時は衡平社の説明や仏教の話等をしました。

7、6月1日頃朴烈、野口、関口某、金重漢の4名が私方に訪れて来て、その翌日……英国婦人参政運動の講演会は我々国のない朝鮮人に取っては参政権の話は必要ないから講演会の妨害に行こうという相談をして、翌日朴、金の二人と講演会に出かけました。講演会で野口、陸洪均、崔圭宗に会いました。……この会の翌日金重漢は本郷の下宿から池袋の黒友会に引き移りました。

8、6月5日頃朴烈からかねて頼まれていた本を渡すべく黒友会に金重漢を訪ねました。丁度黒友会例会の日に当たって崔、洪、張祥重、鄭泰成、朴烈、金が集まっておりました。……その晩は朴烈と共に黒友会に一泊し、翌日二人で私方に帰って来ました。その途中大塚の電車終点に行く道で朴烈は私に対して何か遣って見る気はありませぬかといいましたから、何ですかと聞くと、前に話した様な事ですと朴烈は答えました。……来年までは自分として何も出来ぬという意味を述べました。来年の三月までには今の店を売って自由になる考えでしたからそれまでは何事も出来ぬと思っていたのです。

9、6月7日頃金重漢が夜分来訪……泊まって行きました。…金重漢から性交を要求されました。私には中村という愛人のあることを告げて、現在では金重漢を愛する気分にはなれぬ、然し金重漢は嫌いでは無いからこのまま後は自然の成りゆきに任したいと言うて、性交を拒絶し、金重漢も納得しました。その翌々日金重漢が来訪してまた一泊してゆきました。…<6月14日以前にも泊まって行きました>…その頃金重漢は度々私の所に来ましたので、何頃何回来たか良く記憶が在りませぬ。尚考えて思い出します。

10、6月14日、崔と二人で黒友会に参りました。金、朴烈夫妻、洪、張が居りまして、金重漢は私と二人で前もって相談した自擅者という雑誌の発行を一同に発表しました。

11、不逞社で望月桂の「アナキスト革命運動」の講演会がありました。6月10日頃かと思いますが、判然しませぬ。

12、6月17日頃不逞社で加藤一夫の「革命理想及革命時の組織」という講演がありました。誰かが主催したものですが判明しませぬ。

13、6月28日頃、中西伊之助の出獄歓迎会が不逞社でありました。……

14、7月1日から三日程金重漢は平岩が赤化防止団を襲撃した事で検挙された結果、共に警察で取調べを受け、私も金重漢が知っているという処からと思います、7月3日駒込署で取調べを受けました。……7月8日確かに高尾平兵衛の社会葬の日だと思います社会葬に出て会葬して帰途朴烈夫婦と李秀一と一緒に不逞社に参りました。その時金子と私は茶屋奉公に何処かに出ようという話をしました。私は当時財政に困って居りましたから稼ぎに出る考えでした。その翌晩私は李秀一方に遊びに行きました。……7月13日私は碑文谷の金重漢の所に行って一泊しました。平岩の妻君も居りました。外にも男が二人居ました。7月14日髪を結って金子と上野の鳥鍋の女中奉公に出かける事になって居たところ、知り合いの山口という茶屋からぜひ事務員に来て呉れと云われて、やめてしまいました。

15、7月15日不逞社の例会がありました。<東亜日報の記者を殴るという相談をして居りました。そして直ぐ殴りに出かけましたから私も見物に付いて行きました>

7月31日、洪と二人で大杉栄のところに翌日の黒友会の研究会に来て講演をして呉と頼みましたが、都合が悪いというので6日私宅に来て講演をして貰うことに決めてきました。

16、8月1日、黒友会の例会に行きました。当時黒友会の例会は1日、15日でした。処が朴烈と栗原と私と三人しか出席しませんでした。……

8月3日、朝鮮キリスト教青年会館で黒友会主催の演説会がありました。この会も中止を命ぜられ司会者、洪鎮裕は検束されました。8月6日、私宅に金、張、洪、朴興坤、永田等10人位集まりましたが、大杉が来ないので雑談し、洪、張、金の三名が残って黒友会解散の話をして8月10日にまた集まることに決めました。8月9日の晩、洪は張と喧嘩をしたと云うて、高麗舎を出て妻君を連れて私方に泊めてくれとて参りました。

17、8月10日、黒友会に集まった者は金、洪、張、永田、朴興坤、鄭と私であります。

陳述人新山初代