アナキズム運動史

1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した。

シン・チェホ 1880年12月8日<旧暦換算同年11月7日>- 1936年2月21日<旧暦換算同年1月29日> 歴史学者にして言論人。抗日革命思想家として独立運動、 アナキズム運動の中心で活動。北京に帰り、抗日運動に奮闘。1921年頃北京大学の中国人教授、アナキストの…

1911年1月24日、東京監獄にて11名絞首、幸徳秋水 午前8時6分 新美卯一郎 午前8時55分 奥宮健之 午前9時42分 成石平四郎午前10時34分 内山愚童 午前11時23分 宮下太吉 12時16分 森近運平午後1時45分 大石誠之助 午後2時23分 新村忠雄 午後2時50分 松尾卯一太 午後3時28分 古河力作 午後3時58分 処刑  宮下太吉、執行寸前「無政府党万歳」と叫んだと伝わる。管野須賀子は翌25日に処刑。

1910年11月22日 エマ・ゴールドマン、幸徳事件、エマ・ゴールドマン、ニューヨークで「幸徳事件」への第一回抗議集会を開く、数百名が出席、「ニューヨーク・アピール」を採択、

1938年11月22日 萩原恭次郎、病死 午前零時15分、溶血性貧血(胃病)にて死亡。享年40。翌23日葬儀。 「萩原恭次郎の世界」

1924年11月15日 難波大助、天皇国家により処刑される。

難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄らアナキストが検束される1899年11月7日1924年11月15日。山口県熊毛郡周防村大字立野第1011番地(現・光市立野1011番地)父難波作之進、母ロクの四男。1919年9月、東京の困窮…

1922年11月8日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛。

「…おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様…

1919年11月7日。 

和田久太郎、中村還一、大杉栄らの「労働運動社」の活動のため京阪地方に赴く。

1913年11月7日。 

大杉栄、山本飼山の葬儀参列。 「荒畑寒村による<大久保より> 「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……盛…

1925年11月6日。望月桂、近藤憲二、秋田刑務所の和田久太郎に面会。

<参考>『大正自由人物語』小松隆二。1928年2月22日、和田久太郎の遺体引取り。 望月桂、近藤憲二の二人は昼一二時ニ〇分に秋田駅着。以下、小松による和田死去の日の状況が述べられている。「和田の急死は秋田刑務所の記録では監房にて午後七時に縊死(自殺…

1926年11月5日。 

金子文子の遺骨、朴烈の故郷の山中に埋葬される。 金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面8霊里(聞慶邑内を去る西北2…

1927年11月4日。

『黒色青年』14号「東北黒色青年連盟演説会」 10月31日、我等は結盟の日を機とし、自由連合組織、無政府共産主義に就いての演説会を開催した。 関東黒色青年連盟よりは10数名の同志が応援し、黒旗は奥羽の空に北風となびく。 我等が絶叫の足跡は、東北の地の…

1909年11月3日 宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆

1908年11月3日 宮下太吉、内山愚童制作『無政府共産』50部を郵送で受け取る  

1922年11月1日 大杉栄ら『労働運動』9号発行

印刷人 近藤憲二(労運社住所と同) 主要記事<革命の研究6>大杉栄<編集室から>■逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、…

1922年10月31日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「執筆状況」>

大杉栄より伊藤野枝宛 「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。 きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ…

1914年10月30日 大杉栄『生の闘争』刊行

1916年10月28日大杉栄「立太子礼」に向けて悪戯の相談

官憲資料より 大杉栄……近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞す…

1922年10月27日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「ボルシェヴイキ四十八手裏表」>

大杉栄より伊藤野枝宛書簡 「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……久公といえば、おとといの晩ある会合で、怪しからんうわさを聞いた。それは、僕が静ち…

1922年10月24日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「ボルの暴政」

大杉栄より伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって <革命の研究>と <ボルの暴政>を書いたんで、 きょうはうんざりしてしまった。そして、朝馬鹿にいいお天気なもんだから、飯を食うとすぐみんなを誘って植物園へ行った。……」

1922年10月21日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「自叙伝」執筆> 

大杉栄より野枝書簡 「……一昨日ちょっと服部へよったら……こっちはまたその前夜一晩徹夜して <自叙伝>を30枚ばかり書いたので、 風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ。それで一休みしようと思って、きのうは上天気を幸いに、大ぶ…

1922年10月17日<大杉栄より伊藤野枝宛書簡「原稿」>

大杉栄、野枝宛書簡 「……風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって 『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、…… きのう、江口の家の家主の婆さんが来て、家賃を払ってくれないから何とか話してくれと言って、いつまでもくどくどやる上にオイオイ泣き出…

1925年10月15日 古田大次郎処刑される

9月10日、東京地裁、死刑判決。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、古田は死刑を受け入れ、控訴せず1925年10月15日午前8時25分、絞首される。古田の純真な思いが表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。続けて『死刑囚の思い…

1931年10月10日

萩原恭次郎、第二詩集『断片』を渓文社より出版。

1923年10月8日。新山初代、本郷区駒込蓬莱町18、雑貨菓子商、22歳、母と妹二人、大正9年3月、東京府立第一高等女学校を卒業、後三カ月程、正則タイピスト学校に通う約2年程事務員、その間1年程正則英語学校、夜学に通学、昨年8月事務員を止めて、同年11月駒込に一戸を構え独立して商売を始めた。

母と別れて、一戸を構えた理由は私が肺が悪いため家族へ伝染を恐れたのと、私の気分として一人で居りたいというためとであります。2、私は16歳頃から死というものを考え始めました。死の問題から思想上の問題を考える様になりました。女学校に居る頃は、国…

1919年10月6日 大杉栄『労働運動』創刊

大杉栄『労働運動』第1号発行 本郷区駒込曙町13 大杉栄執筆原稿 <労働運動の精神> <賀川豊彦論> <読者諸君へ>「中村還一、年二十二、時計工、和田久太郎、二十七、人夫、新聞紙違反で十ヶ月の牢獄生活を終えて出て来たばかり 近藤憲二、二十五、早稲田…

1919年10月5日。大杉栄、午後5時 築地精養軒 山崎今朝弥開催 晩餐会に出席。「晩餐会は本年8月8日より一週間平民大会に於て自己主催の下に開催せる夏季講習会に関する講師竝に尽力せし者に対し慰労」

1913年10月5日。大杉栄、シンヂカリズム研究会開催。「会する者総て13名、大杉は講話、資本家と労働者」

1926年10月3日。黒色青年連盟・東海連盟、清水にて発会記念演説会を開く。記事「黒旗の下に」《東海連盟》清水、10月3日。「」『黒色青年』6号掲載。1926年12月1日発行。

1922年10月2日。朴烈、大島製鋼争議支援。

1919年10月2日。大杉栄、巡査殴打事件第二回公判。弁護士花井卓蔵、大澤一六、長野■助、山崎今朝弥、布施辰治の5名出廷。被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…