アナキズム運動史

1912年10月1日大杉栄、荒畑寒村 『近代思想』創刊 幸徳伝次郎発行『自由思想』の購読者名簿に拠り各地方の同志に対し葉書を発送して該雑誌の購読を勧誘大杉栄テキスト<本能と創造>評論<発刊事情><9月の評論>

1922年10月1日『労働運動』8号刊行

<革命の研究5>大杉栄 <編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十三日 栄」 <独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 <労農ロシヤの承認> …

1915年9月25日 野澤重吉死亡

野澤重吉肖像 大杉栄による野澤重吉への献辞 左頁 大杉栄による野澤重吉への献辞 拡大 『労働運動の哲学』カバー 『労働運動の哲学』表紙 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」1頁 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」2頁め3頁 『労働運動の哲学』大杉栄「自序」4…

1923年9月24日不逞社のメンバーで金子文子の同志、新山初代が逮検挙される。新山初代。1902?年?-1923年11月27日。東京府立第一高等女学校2年で父親が死去。肺病になり、新潟で半年間静養、生死の問題に悩んで仏教を研究。1920年3月、女学校を優等で卒業後、正則英語学校夜学に通学、金子文子と知り合い、後に不逞社に参加。金子は「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語っている。

新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。22年11月肺病のため、母、妹二人と別生活を余儀なくされ、本郷区駒込蓬莱町18<当時の労運社…

1925年9月19日。和田久太郎書簡[望月桂宛]「古田君と面会した」「特別許可を願って、正札附、最後の手紙を書く。昨日は古田君と面会した。別に話すべき事のあらう筈がない。馬鹿話をして愉快?に握手して別れた。今日、これから愈々執行になる。行先は未だ告げられない。今朝、近藤君と岩佐君とが面会に来てくれた。十一時すぎだと、もう駄目だつたかも知れない。全くいい時だつた。いい天気だね、今日は秋の彼岸だからな──」

1925年9月16日「追悼会「来る九月十六日は、大杉君等が殺された第三周年に当ります。就いては、次の如く、同志諸君と共に追悼茶話会を催すことに致しました。御出席を願ひます。

時 九月十六日午後六時 所 労働運動社 費 拾銭 労働運動社」

1925年9月16日「大杉君の命日だ。まだまだ生命がある。今日もいゝ天気だ。しかし、死ぬには余り明るすぎる。前には午前十時頃に死にたいと言つたが、朝の中は如何も暑苦しい、ケバケバし過ぎる感じがして厭だ。矢張り夕方がいゝ。今日の夕方なんか實によくなりそうだ。

心配する事もなし、悲観する事も恐がる事もないから、別に頭の疲れる訳がないのだが、十日からこの方、晩は實際よく眠れる。いつもよりか眠たい位だ。変わった夢も見ない。過去のこれと言つて特別になつかしい事も出て来ず、家のものたちの事も出て来ない。…

1926年9月16日「9月16日、大杉栄追悼会を労働運動社にて行なう。関西にては解散を命ぜられた」

『黒色青年』6号(1926年12月発行) 同紙に関しては以下のサイトがある。http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/kokushokuseinen.html

1924年9月16日「九月十六日には大杉君、野枝さん、宗一坊の一周年追悼会が、東京、大阪、和歌山、静岡、等各地で行はれた。本号は記事輻輳の為、遺憾ながら其等の盛況を載せ得なかつた。追悼会のあつた各地の同志に、謹んでお詫びします」『労働運動』第六号 1924年12月1日発行

1923年9月16日。大杉栄、伊藤野枝、橘宗一虐殺さる「戦友の死「大杉栄、伊藤野枝両君が、去る九月十六日、橘宗一君と共に東京憲兵隊本部で虐殺された事は、既に諸君の熟知せるところである。

同志諸君! 我等が常に、友人として、先輩として、且つはまた我等の有力なる同志として、相励まし相親しんでゐた大杉、伊藤の両君は倒れた。我等の運動の尊き犠牲として、遂に我等の戦線に倒れた。我等は両君の死によつて、まことに償ふべからざる大なる寂寥…

1925年9月10日古田大次郎獄中手記より『死刑の宣告を聞きにゆく日』九月十日! 去年の今日、朝早く、寝込みを襲はれて村木君と僕は、他愛なく警視庁に挙げられて終つたのだ。早いもので、もう一年経つた。因縁の深い今日、刑の宣告を承はりに、さア出掛けるとしようかな。

帰監後、予ての覚悟だつたから、宣告を聞いた後も、怖ろしい事も淋しい事もない。実に静かな気持ちだ。判決が思ひ通りだつた所為か、大変愉快だ。…今日は加藤一夫君が来てくれたので…仮監で和田君に会つた時、和田君は物も言はずに突然手を握つて「しつかり…

1924年9月10日古田大次郎逮捕。古田大次郎、弾圧。上蛇窪の根拠地に刑事を派して内偵させた所、倉知は七月二十八日金策のため下阪して六畳、三畳二間の長屋には古田と村木が潜んで既に製造された爆弾十数個が積み上げられてゐることが判り、万一踏込みが知れるや爆弾を爆発し自殺しかねまじき形成なので刑事は二日三晩といふもの同家を遠巻にして捕縛の方法に苦心の末遂に多少の犠牲者を出す覚悟でいよいよ九月十日午前一時頃刑事部からは土屋、出口、恒岡の三警部及び特高、内鮮刑事部からそれぞれ敏腕な刑事三十名を選び全部変装してこれを

……夜になるとコツコツ 隠れ家の怪 上蛇窪の隠れ家は差配金子峰蔵から七月十五日から一月廿二円敷金三ヶ月分として借り受けたものであるが誰が住んでゐるのか近所の者には顔さへ見せなかつたが…。

1924年9月3日 古田大次郎、村木源次郎、和田久太郎が留置されていた本郷本富士署にタバコ缶を外装とした爆弾を投げ込むも不発

1925年8月31日。火曜日晴。古田大次郎獄中手記より「如何なものになつたろう……」

「…何ぼ僕が空想家だつて、見す見す破滅に陥るやうな道には行きはすまい。」 古田大次郎、中浜哲、ギロチン社

1922年 8月27日。<自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。富川町の坂野兄弟、堀川久、三河

宣言………自由労働者組合 綱領……… 規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10

1925年8月19日。古田大次郎、獄中手記

「晴。運動場の隅に生えてる雑草──ほんの二、三本だが、その雑草が、雨の降る度に、眼に見えて大きくなる。」 山崎弁論批判「僕を真実に知り、そして愛してくれるならば、弱い僕に力を与えて安らかに死なせて貰ひたい。徒に生命を助けようなどと骨を折るのは…

1908年8月14日 

幸徳秋水「翌日からの赤旗事件公判傍聴のため東京に戻る。同夜、豊多摩郡淀橋町柏木に住み平民社とする。熊本評論をやめた坂本清馬が住み込み、森近運平も合流」

1922年8月10日。『黒濤』第二号発行される。

「此の態を見て呉れ」烈生 「思ったこと二つ三つ」ふみ子 「東支線駐屯の日本軍」烈生 「ボロ長屋の二階から」金子文子 「朴烈から」 「朝鮮光州に印刷職工の罷業」烈 「栄養研究所所長佐伯博士に」ふみ子

1926年7月31日

金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された 31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府下雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁…

1925年7月30日 古田大次郎「獄中手記」より

「外へ運動に出た時、つくづく生きて居たいなと思ふ場合と、さうでなく、案外生に冷淡な場合と二つある。今日は何故か、大変、生きている歓びを感じた。…僕はいつまでもいつまでも、この美しい世界に生きていたくなつた。矢張り、僕は朝より夕方の方が好きだ…

1926年7月30日 布施辰治弁護士、栗原一男ら金子文子の遺骸発掘

「卅日午後三時四十五分赤羽発列車で同七時栃木町に着いた文子の同志 栗原一雄、古川時雄及び実母きく、布施弁護士、馬島医師等が前田支所 長に死体引取の交渉をしたが埒明かず同夜十時布施、栗原、古川の三氏 は自動車を宇都宮市に駆つて吉川同刑務所長に重…

1925年7月29日 和田久太郎書簡 古河三樹松宛

「僕は労働組合が堕落の傾向があるからといって、その力なり、意義なりを軽視するのは大反対だ。それが堕落に向ふやうなら、猶更らその運動に向つて力を尽さなければならないと信ずる。……」「……あき足るものは自ら創造して行く他にないよ、実行と経験の真ん…

1926年7月23日 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。7月31日 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる…

1925年7月18日 金子文子、朴烈 大審院第1回予審訊問

金子文子、予審請求書訊問調書(第1回)1925年7月18日市ヶ谷刑務所、刑法第73条の罪並爆発物取締罰則……大審院特別権限に属する被告事件予審掛東京控訴院判事立松懐清……二問 年齢は。答 御役人用は二十四年ですが自分は二十二年と記憶して居ます。併し本当の…

1922年7月16日 

後藤謙太郎逮捕される。金澤九師団への外出兵士へ軍隊宣伝不穏ビラを撒いた件

1916年7月16日 

大杉栄より伊藤野枝宛書簡 「……うんと喧嘩でもして早く帰って来るがいい。その御褒美には、どんなにでもして可愛がってあげる。そして二人して、力をあわせて、四方八方にできるだけの悪事を働くのだ。それとも、この悪事をあと廻しにして、叔父さんの言う通…

1925年7月7日

金子文子・朴烈に対する刑法73条、爆発物取締罰則、予審終結決定

1919年7月7日大杉栄、著作家第一回総会に出席

「僕は近来日本に労働問題が盛にやかましくなって来る原因及労働問題が日本政府資本家是等の御雇の学者などの問題に叫ばれて居る之が最近一年以来の話である日本の労働問題が叫ばれて来たのは十年二十年にもなるが真に労働問題を叫ぶ様になったのは実に昨年…

1907年7月7日 大杉栄 クロポトキン、マラテスタの著作を読む大杉栄書簡より

獄中での読書 「クロポトキン『無政府主義の倫理』『無政府主義概論』『無政府主義と共産主義』『裁判と称する復讐制度』マラテスタ『無政府』ロラー『総同盟罷工』『パンの略取』マラトウ『無政府主義の哲学』」堀宛手紙、巣鴨監獄

1906年7月4日 サンフランシスコから戻り、幸徳千代子と共に新橋駅から土佐中村に向け出発