1926年7月23日 金子文子死亡、宇都宮刑務所栃木支所 現在地は栃木市立文化会館と図書館、栃木駅から徒歩10分余り

新聞報道は八日後にされた。

7月31日 『京城日報』大逆犯人朴烈の妻刑務所で自殺す《東京電報》■二重橋事件の大逆犯人として死刑の宣告を受け聖恩に浴して刑一等をを減ぜられ無期懲役に処せられた朴烈の妻金子文子(二五)は栃木県栃木町所在の女囚収容所なる栃木刑務所に服役中であったが去る廿三日の看守の隙をうかがい覚悟の自殺を遂げていたのを程経て看守が発見大騒ぎとなり手当を加えたが効なく刑務所長は右の旨を行刑局長に報告する所あり同刑務所では極力事件を秘密にしている



 刑務所では自殺を否認知らぬ存ぜぬの一点張りで事実を極秘に附す《宇都宮電報》■文子の死んだ栃木刑務所は宇都宮刑務所の支所であるが卅日午前零時同刑務所をたづねると三浦看守は、知らぬ存ぜぬの一点張りであるがすでに獄死の知らせが吉川宇都宮刑務所長の手もとにあった事は事実である。吉川刑務所長を訪うと当惑の色を面にうかべて『弱りましたな?兎に角その様なことを伝えられると事件が事件ですから世間の誤解を招きますので是非秘密にして貰いたい、自殺だって?はあ、そんな噂がありますか、噂なら仕方がありませんが然し新聞がその事を掲げることはかえって社会善導の目的に反しますよ』と非常な弱り方であった

死因は絶食か 獄則に反抗していた文子 《東京電報》 ■入力略

妻の死を知らぬ朴烈《東京電報》 ■入力略

叔父との結婚を強られた文子 爛れた母親の犠牲に弄ばれた其の生立 《東京電報》■恐るべき罪をおかし死一等を減ずるの恩命に浴しながら遂に廿五歳を一期に栃木刑務所に自殺を遂げ呪わしき一生を終った金子文子山梨県東山梨郡諏訪村字下諏訪に私生児として生れ、郷里近くの七里村には今なお実母きく(四六)が娘の心の狂乱に涙ながら暮しておる、彼女は小学校時代は極めて利巧な子供といわれたが九つの時に父に死に分れ運命は幼い彼女を朝鮮に送った。朝鮮で小学教育をおえた彼女は十六歳で一旦郷里に帰り山梨女子師範の入学試験を受けたが身体検査で落第しここに横道への第一歩を踏むに至った、かくて十七歳の時苦学の目的で上京したが彼女の生活は未知の世界に踏み込んで行った『私は信ずることの出来る人を一人も知らない』と彼女がいった如く彼女の生活は虐げられたもので、その間文子の母は彼女を遊廓にうろうとした事もある程で、母親は文子の父なる巡査に死に別れて以来四五度も縁づき文子は家庭愛というものを全然知らなかった、文子が上京を決するまでには母は財産目当てに事実上叔父にあたる僧侶に嫁入らせんとした事もある、かかる悲惨のドン底生活によってすずられた彼女の生活は去る三月廿五日の判決理由書の中にも『被告は幼にして父母の慈しみを受けず荒みたる家庭に生たち骨肉の愛を信ぜず』と書きしるされていたかくて彼女は虚無的思想に走り十一年二月朴烈と知り同五月府下代々木に朴と同棲の生活に甦り大逆を計画するに去る二月大逆事件の公判が大齔院の法廷に開かれた日文子は公判廷に悪びれもなく現れ不敵の態度で裁きを受け遂に死刑を宣告され四月五日に至りはからずも若槻首相は朴および文子に対する減刑の恩命を拝受し彼女は遂に廿五歳の生涯の最後の場所となった栃木女囚刑務所に収容されたのである。

まな娘からお茶子まで 宿命に呪われた金子文子の半生■金子文子の半生は数奇な運命そのものであった、弱い女の身でもって、社会主義者の群に投じ非道の大罪を犯すまでには、一歩踏そこなえば魂は千尋の谷へと齒をうき立たせる程おそるべき女の末路を物語るものがある。しかし彼女の生い立もやはり人間であった。−−文子は幼きころは可愛娘として愛でられていた。運命はむごくも世間知らずのかの女の手からその二親を奪いとってしまった。それから文子は朝鮮に流れて京釜線芙江の叔父方にて預けられ、この時には隣近所から羨まれるほどおとなしい雛娘であったがそれから文子は山梨に戻り更に上京して夕刊売子から、旅館の女中、飲食店、活動写真館のお茶子……闇の銀座に或いは魔の上野に人眼を憚る女となり、それが彼女が社会主義者のむれの中に身を投ずる機会を作り、当時『不逞鮮人』を東京で発行していた朴烈と共鳴して大正十一年五月から東京府下代々木富ヶ谷に小さな家を営むに至ったのである。今春文子が獄中から『こんなことになってはじめて自分にかえって見ればもう時はおそかったのですいくら藻掻いても取りかえしようがありません、ただ口惜涙に泣きくれています、(中略)最後に社会に対して申訳がありません』と芙江の友人にあてた手紙を読んでも、彼女は獄中でどれだけ自分を悔いていたことだろう


7月31日 金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された

31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)