1926年7月31日


金子文子の遺骨を盗去る追悼会がすんでからやうやく取戻された

 31日栃木県栃木町女囚刑務所の共同墓地にて母親に引渡された朴烈の妻金子文子の遺骸は同地で火葬に附し母親きくおよび布施弁護士ら附添ひ東京府雑司ヶ谷の布施弁護士宅にひとまづ引取り警視庁では数十名の警官をもつて万1に備へてゐたが1日午前5時ごろ同弁護士宅に朝鮮同志の一味なるもの訪問し来り同家奥10畳の間に置いた文子の遺骨を持ち去つた、一方府下池袋の自我人社に集合した中西伊之助氏ら廿三名の一派は文子の追悼会を行ふ目的でうち数名の者は布施弁護士邸をたづね母親きくに面会同人を伴ひなほ文子の遺骨の入つてゐると見せかけた大鞄を持つて自我人社に引揚げたがこの一行が同社に着くと同時に池袋の警官隊数十名は直に同社を包囲し前記中西氏ら23名を検束し一方文子の遺骨は前記の如くいづれにか持ち去られたことがわかつたので署長も驚き即刻各方面に刑事を飛ばして文子の遺骨捜索を開始した。その結果やうやく午後6時ごろにいたりかねて注意中の一派の立廻る上落合の前田惇一方に置いてあり同家において彼等1味が追悼会を行つたことまでわかつたので警官隊は直に右遺骨を押収し池袋署に保管し同時に中西等23名を釈放するととゝもに右遺骨持逃げに関する取調べをした池袋暑では右栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る際にも付添つてゐた金正根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めてゐたので右2人のうちの金が密かに持出したものであらうといつてゐるが40数名にて警戒しながらマンマと遺骨を持去られ追悼会がをはるまで知らなかつた等は高田署の責任問題なりといはれてゐる(東京)