『リュックサック』五号

「昨年の秋でした。あのテロリスト古田が死刑台の露と消えたのは。牢獄の隅に咲く野菊に淋しい想をよせて、彼の良心が彼に教へた道を踏んだために廿六の若さを以て逝いた全生涯は悲しくも惨々しいものです。」藤田信道。「或る山男の手記 安田君に捧ぐ」(『リュックサック』五号、早稲田大学体育会山岳部刊、一九二七年二月)。
八〇年前に処刑された古田大次郎早大山岳部員により語られている。古田は当時「テロリスト」として名前が喧伝され、逮捕時の新聞は「昨年七月以来帝都を脅かした陰謀団全部検挙さる」と報道した。
 藤田信道は大正末期に早大山岳部の中心メンバーとして活躍。「若き血に燃え立つアルピニストよ、登山技術に山岳思想に山岳部を代表して立つ人か。真純なる学的の山男よ。」と評価されていた。
 藤田は後に日本山岳会会報『山岳』二五周年記念号に「乾燥雪崩」を掲載。また編書として『アルプスヒマラヤ処女峰登攀史』を一九三一年に山と渓谷社、著書『積雪期登山 準備と技術』を三六年に朋文堂から刊行している。
 古田は藤田より数年早く早稲田大学に入学しているが学生生活は短く、二人の接点はない。しかし古田は在学当時、社会主義の影響を受け三宅正一、浅沼稲次郎が中心の学内組織「建設者同盟」に参加していた。そのつながりから在学時の古田を知る人間が藤田の時代に残っていたとしてもおかしくはなく、古田のエピソードを聞いていた可能性はある。藤田もまた社会主義の影響を受けた学生であった。それは藤田自身がエッセィ「山と語る」(『リュックサック』四号、二五年一一月)に記述している。
「私は二月の或る夜、K街の或る所で催された思想問題の講演会で警官から、例のザ、レッドフラグを高唱したといふ理由でN署に同行を強いられたことがある。…その夜留置場で眠られぬ一夜を明かした私は…それから間もなく放免されて…T中学の辺りで私は身体の小さい、血色のよい中年の人がうつむき勝ちに歩んで来たのを見た。背広姿の謙譲な態度で、心は平和そうであった。が何時も何か考え込んで居るような様子。すれ違いさま、それは槙さんだった…」(槙氏一行をロッキーに送りし日の夜更けに)。釈放された日に槙有恒と邂逅していた。 
七月のある日、私は大糸線にて一人南小谷に向かった。長野の友人と雨飾山の麓のキヤンプ場で待ち合わせていた。松本を発車後、少し高くみえたのが常念岳なのだろうか。山並みを見つめながら時代を超え、常念岳を超え藤田信道の上高地への山旅の記録を想った。
「初冬の上高地、一九二五年十一月 記憶の断片」(『リュックサック』五号)によると、この年藤田は「猛暑三ヶ月に亘る病床」であった。体力も落ちているが一一月、初冬の槍穂高行に二人の部員、四谷龍胤、安田利喜之助と共に向かう。屏風岩下岩小屋をベースに屏風岩に登攀を試みる。翌日、藤田は一人で上高地に戻り槍登頂の二人の帰りを待つ。
 同年夏、古田の裁判は回数を重ね九月に死刑判決が出され、処刑は一〇月一五日であった。藤田は病床で報道する新聞記事を読んでいたのだろうか。
 雨飾山は再訪であった。一〇年近く前の六月、「山の本倶楽部」の企画による山行では霧に支配され残雪も多かった。今回は快晴、樹林を抜け中腹から振り向けば周囲の山々は全て見渡せた。同じコースであるが初めての印象をもつ。記憶の風化だけではなく天候の差もあり、異なる山と感じる。
「或る山男の手記」において藤田は古田の死、さらにかつてその作品を愛読した作家有島武郎の死もゲオルク・ウィンクラーの死と並べ「正直な真剣な生涯」と位置づける。
「…私は彼等のために淋しい一生を死の真正面に立って秋の心に浸ることを惜まなかった飽くまで真面目な生活を想わずには居られません。時こそ変る、所こそ違う、だが、一八八八年拾八歳の若さで独りワイスホルンの岩壁に一生涯の山への想をよせて死んで行った彼、ゲオルグ、ウインクラーの聖地の山旅の数々のいとなみこそ彼の短かい生涯を飾るに相応わしいものです。」
 藤田はこの年、確かに死を考察していた。
古田たちギロチン社は関東大震災での大杉栄の虐殺に直面し、権力者や資本家を直接攻撃する行動に向かう。古田は関西で活動資金を得ようとし銀行員を誤って刺殺(一九二三年一〇月)。警察の追及を逃れ、翌年には爆弾製造にとりかかり九月始めに小包爆弾を震災時の戒厳令司令官福田大将宅に郵送、また銀座の電車軌道にしかけ爆発させる。しかし威力は小さくけが人は出ていない。世間は騒然となるうち九月一〇日、東京のアジトで警察に捕まる。獄中手記には死刑を覚悟した日々がつづられる。「外へ運動に出た時、つくづく生きて居たいなと思ふ場合と、さうでなく、案外生に冷淡な場合と二つある。今日は何故か、大変、生きている歓びを感じた。…僕はいつまでもいつまでも、この美しい世界に生きていたくなつた。矢張り、僕は朝より夕方の方が好きだ。」。処刑後、獄中遺稿は『死の懺悔』と題され春秋社より二六年に刊行、大ベストセラーとなった。(同社から近年復刻版が刊行)。
 雨飾山の頂上は風も吹かず陽にさらされていた。眺めのよさと引き替えに暑さを押しつけられるとは思わなかった。霧に覆われた六月の頂が懐かしかった。
 藤田は登山スタイルに関しては幅広く考えていた。「或る山男の手記」の結論を引く。
「私は今高い山々への憶いをのみ真正アルピニストの正しいものとは思いませぬ」「或時は丘陵の路を辿ることもありましょう」
大正も終わろうとしていた。三年前の関東を襲った大震災による死と多くの虐殺死、治安維持法の制定と時代は自由な生き方を圧殺する方向に動いていた。藤田が一文を捧げた安田は上高地から戻った直後に兵役で入営していた。藤田は語る。「俺は何も為し得ない人間です。だが山丈は心から愛せたと。」「行きましょう、あの山の頂きに立って心行くまで無限の自然の拡がりを見入りましょう。そうすればもっと大きなことが考えられるかも知れませぬ。」 
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