クロニクル

中浜哲は4月15日午前10時に絞首された。「遺言により布施弁護士は 16日夜半遺体引き取りに赴いた」 と 17日の大阪朝日新聞は報道。中浜の親戚でもあった秋山清の調査によると遺骨は兄弟と従兄弟が引取る。宮本三郎は当時を回想し「中尾正義が暫くして福岡の中浜の兄を訪ね、富岡家の墓に埋葬の中浜を墓参」としている。中浜は大阪刑務所北区支所の独房で詩や回想記の執筆を進め、著作集が冊子として文明批評社から 25年12月に刊行。

処刑後、刊行された『黒闘』に、同志による中浜追悼詩が掲載、「ギロチンの露と消えたる中濱の遺骨を圓る黒旗のむれ」 「黒旗と髑髏とスパイが入り亂れている同志補縛の夜の光景」 と描写され、『黒色青年』には「 5月初旬、関西黒旗連盟の成立、『浜哲死刑…

1909年4月13日

宮下太吉、クロポトキン著幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文する。 宮下太吉の活動に関しては概略を執筆している。 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/miyashita-2.html<熟練の機械工であった宮下太吉である。1876年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習い…

1919年4月12日 

金子文子、16歳で朝鮮を去る。14日塩山駅に着く。 金子文子の朝鮮 金子文子は日本国家が朝鮮を侵略し植民地化している現実を自身の七年間の体験を通して充分に感受していた。両親から見離されたという体験、父方の親戚から受けた虐待を被害者としての意識に…

1926年4月11日 

横浜印刷工組合、横浜自由労働者組合、凡人社主催で故村木源次郎、斎藤光太郎君の追悼を兼ねて11日、京浜の同志相会した。100名ばかりの警官護衛で、男女老幼家族一同100名余り、汐干狩りとしゃれた。『黒色青年』第二号に掲載。 斎藤光太郎(さいとうみつた…

1926年4月6日中浜哲、死刑執行前に面会を妨害される

中浜哲は弁護人山崎今朝弥宛の手紙で面会がないことを明らかにしている。「大阪のA女子のハガキ、3月27日<あなたに面会に来られた方々は皆検束されました。大阪の人達も全部検束されて居ります。今日私が参りましたが、面会するのだったら引っ張る、との事…

1926年4月5日『黒色青年』創刊。

『黒色青年』紙の「消息欄」より ■黒色青年連盟事務所は、東京府下南品川町二日五日市町二四四に移転した。 ★註、機関紙題字左の発行所住所には「南品川二日五日市町二四四」とある。 ■同連盟第三回演説会を無産政党批判演説会として神田区スルガ台下、中央…

1908年4月3日両毛同志会が佐野町の大雲寺にて開かれる。

大杉栄、山川均が東京から講演に訪れる。田中正造も参加。

1926年4月1日『労働運動』15号 

<秋田から> 和田久太郎 <消息>高島三次君下獄、懲役2年 朴烈君の裁判 ギロチン社事件高裁判決 前年に続き、この26年も大きな事項が報告されている。金子文子・朴烈の大審院公判、中浜哲への死刑判決と続く。高島三次は『日本アナキズム運動人名事典』で…

1925年4月1日『労働運動』第9号  

<治安維持法の出現に際して> <市ヶ谷にて>和田久太郎 <馬来半島に於ける無政府主義運動> 山鹿訳 <醜い尻っ尾>「和田君等の事件が予審終結となり、…三月七日、治安維持法が上程」 <爆弾暗殺事件予審決定書> <後藤君の追憶>和田久太郎 <同志村木…

1924年3月30日

「中浜哲逮捕される。活動資金確保のため、大阪に戻った中浜は、リャクを行い、実業同志会事務所から出たと ころを恐喝犯として伊藤孝一と共に逮捕される。倉地、逸見吉三も同行していた」小松隆二の調べによると実業同志会事務所は「大阪市西江戸堀南通り一…

1927年3月29日

「福田大将狙撃事件に関連して東京の豊多摩刑務所に収容されていた。逸見吉三君は去る3月29日無事出獄した」 逸見吉三は1903年生まれ。(父親の逸見直三は1899年に労働者として単身渡米。IWWの活動や労働先駆者団の活動を知る。1909年以前に大阪に戻り、1914…

1926年3月26日「金子文子に会いに上京した母親」飯田徳太郎

飯田徳太郎に関しては名前があげられるわりにはその活動はあまり知られていない。詩に関しては丹念に掲載誌をあたれば少しはまとまるかもしれない。飯田が書き残した数少ない文の一つが以下の市ヶ谷刑務所での面会の情景、金子文子の母親を描写したものであ…

1926年3月25日金子文子・朴烈へ大審院判決

理由 被告準植は其の幼時より受けたる環境の影響、民族の現状に関する不満の念よりして偏狭なる政治観及社会観に陥り遂に地上の万類を絶滅し自己亦死するを以て究極とする其の所謂虚無主義を抱持するに至り此の思想を実現せしむる為我皇室に対し危害を加ふる…

1911年3月24日 

「春三月 縊り残され 花に舞う」 神楽坂倶楽部にて同志茶話会が開かれ大杉栄は句を詠む。 幸徳秋水を始めとして多くの同志は二ヶ月前に絞首されていた。大杉栄は赤旗事件にて不当な懲役刑により千葉刑務所に収監、秋水たちへの弾圧後は官憲より関連した調べ…

1926年3月23日 金子文子・朴烈、結婚届けを出す

この届けは死刑判決を前提とし、二人の遺体引取り便宜のため。布施辰治の以下のテキストが明らかにしている。「ニヒリストの最後に、死を急いだ朴烈文子は其の遺骸の覚悟に関し、当時、文子の父も母も之を引取って呉れやうとは思はれず、又引取って呉れやう…

1928年3月21日「和田久太郎君の追悼会」

和田久太郎君の追悼会は3月21日於神田松本亭にて開催された。『黒色青年』17号4月5日「獄死せる和田君の面影」 http://www.ocv.ne.jp/~kameda/wada.html 1928年4月『黒色青年』掲載 彼の勇敢なる行動と彼れの捨石的努力を我等のものとして生かせ! 各地の同…

中浜哲、控訴院死刑判決から六日

中浜哲「弥生空 魏櫓枕高く 霞往く 黒蝶ぞ我散る花に舞う」 弁護人の山崎今朝弥宛ハガキに記す。 <獄中影> 差入れの本の間より 黝きクローバの一つ落ちぬ 彼女のこゝろか 轉げ出でぬ 六神丸の原料のごと 紫の膽の色 菫の押し花 壁に活かして セイリョフの…

中浜哲、大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決

中浜哲は裁判制度を否定し法廷では黙秘。検事控訴により大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決となる。(1925年5月28日、大阪地裁無期懲役の判決)。 中浜が裁判長に「私の上訴権は放棄」、検事には「この上は刑の執行を出来るだけ早く」と叫んだことや加藤一夫や…

1931年2月11日 宇佐美五郎凍死

1907年生まれ。『日本アナキズム運動人名事典』より

金子文子・朴烈「大審院公判」

一九二六年二月 再結成された黒友会を中心に傍聴等の支援体制が組まれる。三月二〇日発行、 『自我声』創刊号が在大阪の朝鮮アナキストにより発行。「朴烈特別公判」と題した記事が掲載。「…傍聴禁止、二月二六日午前九時大審院法廷で開廷された。…この日鮮…

1926年2月26日金子文子、朴烈の大審院公判が始まる。

金子文子はその日の夜、公判で主張した内容を整理し執筆する。翌27日の公判において読み上げ、書面として提出。 <二十六日夜半> 金子文子 「昨日云った或る点に就いて、其の意味がよく解り兼ねるから改めて書いて来て欲しい、と云ふ風な注文を書記さんから…