1927年3月29日

「福田大将狙撃事件に関連して東京の豊多摩刑務所に収容されていた。逸見吉三君は去る3月29日無事出獄した」
 逸見吉三は1903年生まれ。(父親の逸見直三は1899年に労働者として単身渡米。IWWの活動や労働先駆者団の活動を知る。1909年以前に大阪に戻り、1914年に大杉栄荒畑寒村の『平民新聞』の大阪販売所を引き受け労働運動社にも参加21年には借家人同盟を結成する)。吉三はアメリカで生まれたと推測される。父親を手伝い14年には『平民新聞』の販売を新世界で手伝う。18年夏には大阪での米騒動大杉栄に同行し見聞する。21年の第一回メーデーにも参加、22年の反軍ビラまき事件に関連し半年間拘束される。…(『日本アナキズム運動人名事典』の記述より)
 逸見吉三が巻き込まれた事件に関連した記述が「和田久太郎の福田狙撃事件、ギロチン社関連の爆弾事件」の予審終結決定書においても触れられている。倉地啓司、新谷与一郎の爆弾外装の製造に関わる部分である。実際は相談の場が逸見の家で為されたか運搬の経由地となっただけなのかもしれない。上告審まで進みかなりの減刑になっている。
「……一方啓司は東京府下下大山街道の山中に到り該爆弾を投擲したるも発火装置の不完全なりしため爆発するに至らざりしも此分を除き他は執れも相当其成績良好なりしを以つて更に(五行削除)其威力を強大ならしめんが為め同月卅日頃被告人啓司は京阪地方に赴き大阪市南区水崎町七百十九番地逸見吉三方に於て被告与與一郎と面会し右福田大将及び正力元警視庁官房主事暗殺の計画を告げ該暗殺用としての爆弾に使用する(二行削除)を依頼し被告人與一郎又之に賛同の上其の後計画を作成し其製造資金調達のため八月上旬相共に前記上蛇窪の隠れ家に来りたる際……」。
 削除というのは新聞発表時の検閲のためと推測。