1926年4月11日 

横浜印刷工組合、横浜自由労働者組合、凡人社主催で故村木源次郎、斎藤光太郎君の追悼を兼ねて11日、京浜の同志相会した。100名ばかりの警官護衛で、男女老幼家族一同100名余り、汐干狩りとしゃれた。『黒色青年』第二号に掲載。
斎藤光太郎(さいとうみつたろう)は『日本アナキズム運動人名事典』によると生没は「1895年-1925年3月25日。」「1920年、横浜港の沖仲仕の大争議に参加。社会主義に目覚め大杉栄、和田久太郎、村木源次郎と知り合う」「23年根岸刑務所にて関東大震災に遭遇し脱獄、大阪、北海道と逃げるも捕まる」「たび重なる拷問と拘禁に責め抜かれ力尽きて没す」と記述。
村木源次郎も横浜出身であり、横浜で社会主義運動に加わっている。横浜の同志たちは二人の追悼と交遊を兼ね、官憲の嫌がらせの中開いた。村木源次郎も横浜出身であり、横浜で社会主義運動に加わっている。横浜の同志たちは二人の追悼と交遊を兼ね、官憲の嫌がらせの中開いた。