林芙美子と辻潤の交流

辻潤による序文
林芙美子『蒼馬を見たり』  
「芙美子さん  しばらく留守にしていたので返事が遅れてすみません。
帰ってから十日余りになるのです。身体はさしてわるいというわけではないが、頭が麻痺しているようなのです。序文はもちろん喜んで書きます。しかし別段改まって書くこともありません。あなたがまずニセ物の詩人でないということがなにより先に感じられるのです。あなたは詩をからだ全体で書いています。こういったらもうそれ以上のことはいわないでもいいのかもしれません。あなたにはかなりな独創性があります。真似をしたところが見えません。それに情熱と明るさがあって、キビキビしたところがあります。それ故あなたが特に女性だというようなことは私の頭には映じて来ないのです。あなたの詩には少しもこせついたところがなく、女らしいヒガミもなく、貧乏でもはつらつとしているところがある。…… 詩人は生まれるというのは古い言葉ですが、ほんとうです。すべて芸術はなにより天分が問題です。……すぐれた天分のない人間の芸術いじり程みじめな物はおよそないようです。……私は昔から自分の書いた物を一度も人に見せたり、読んでもらったりした経験がありません。他人の尺度というものが、如何なる場合にも自分の尺度にならぬことを自分が信じているからです。もちろん他人の作品の場合でも人がほめたからその作品に感服するのではなく、自分が感服したから、感服しているまでの話です。私も来年から少し自分を静かにいたわる生活をしたいと思っています。私はまたこの三十一日に旅へ出ます。あなたの詩集の出る頃までに帰るかも知れません。では御自愛専一に願います。大正十四年十二月二十九日」
辻潤萩原朔太郎の乃木坂倶楽部も訪れています。