1911年3月24日 

「春三月 縊り残され 花に舞う」
神楽坂倶楽部にて同志茶話会が開かれ大杉栄は句を詠む。
 幸徳秋水を始めとして多くの同志は二ヶ月前に絞首されていた。大杉栄赤旗事件にて不当な懲役刑により千葉刑務所に収監、秋水たちへの弾圧後は官憲より関連した調べのため東京監獄(市ヶ谷監獄)に移された。当然ながら大杉をも大逆事件に巻き込むことは出来ず、1910年11月29日、満期で出獄した。大杉は同志への面会を重ね12月中に秋水より「バクニン」の肖像の大額面を贈られている。更に堺の手を経て秋水より剃刀一挺も贈られた。
12月8日に幸徳は大杉に対し「倫敦の『フリーダム』に僕の事情を通信してくれ」と依頼をする。
1911年1月24日に11人が処刑。1月25日朝、管野須賀子が処刑される。昼前から東京監獄前に同志たちが集まり、大杉は石川三四郎と思い出話をする。午後6時半頃6名の遺体が引き取られる
翌26日にも大杉等は4名の遺体を引き取る。
1月30日に堺利彦の家(四谷区南寺町6番地)にて「刑死者遺体引取慰労会」が開かれ大杉も出席する。2月21日には同志茶話会が神楽坂倶楽部にて開かれ大杉栄は「尾行者に関する」談話をなす。
3月17日、大杉栄大逆事件受刑者家族の慰問のため東京を出発し大阪市三浦安太郎実父、武田九平の実弟訪問、百瀬晋と会い三重県下月ヶ瀬に一泊し22日に帰京する。
そして24日の同志茶話会。堺利彦、藤田四郎の主催。大杉は「大阪、三重、長野、山梨地方の旅行」のこと「検挙者の遺族に対して迫害、遺憾に堪えず」と語る。
大杉は二年余りの囚われの身から「自由」になり、直後に幸徳たちへの「救援」を始める。しかし同志たちは処刑されてしまう。大杉は遺体引取と遺族への慰問を為す。運動再建のため茶話会が始められ、三月は神楽坂にある倶楽部が会場。今年と同じく東京の桜の開花は早かったのか。神楽坂の前に市ヶ谷の東京監獄周辺を回ってきたのかもしれない。並木ではないにしろ東京の街では桜の樹々があちこちで植えられている。外堀沿いに桜並木が続いていたのかもしれない。今でも土手上では並木を観ることができる。大杉は舞う花、桜の木を何処で観たのだろうか。