1928年3月21日「和田久太郎君の追悼会」

和田久太郎君の追悼会は3月21日於神田松本亭にて開催された。『黒色青年』17号4月5日

「獄死せる和田君の面影」
http://www.ocv.ne.jp/~kameda/wada.html
1928年4月『黒色青年』掲載
彼の勇敢なる行動と彼れの捨石的努力を我等のものとして生かせ!
各地の同志諸君にまで悲しい知らせをしなければならない。僕等が常に「久さん」として親しんでいた同志和田久太郎君の死である。……秋田に於ける和田君。あの冷たい牢獄で、寒さと戦いながら、我等の運動の進展を熱望しながら、独り黙然として苦役に従っていた和田君。……秋田に於ける和田君の存在−この一つの存在が、僕等にとっては偉大なる存在であった。

何ものにも増して、僕等を最も強く鼓舞し鞭撻する存在であった。なぜか?それは云うまでもなく、彼が身を賭して敢行した行為そのものが我等の心を緊めるからである。彼の「実行の伝導」が我等の決意を促し、我等の運動を真摯なる境地にまで導くからである。同時に又、彼れの同志に対する友情が、そこから湧き起った復習心が、温かい血潮となって我等の胸に再燃するからである。…… そして彼が、法廷に於て叫んだ次の言葉は今猶お諸君の記憶にある事と思う

。「僕は国家の定めたる法律を侵した。しかも、それは法を知らずして侵したのではなく知って猶且つ侵さざるを得ざるものあるが故に敢えて之れを侵したのである。故に法律に対してはただその前に此のからだを投げ出すのみで何事をも訴えたくは思わないが、しかし、社会生活を営みつつある全社会の人々に対して僕は声を大にして一言訴えたい。諸君はその社会的正義を求める心にこの事実を問うて」猶且つ僕の行為を悪虐として責めることが出来るか?自らの正義の心情に照らして勇敢に僕の侵した罪を罰する事が出来るか?と。即ちこの心情こそ、この度びの暗殺を企てて、少しも疚しくも又恥づることもない僕の信念を生んだのである。」これが法廷に於ける彼の言葉であった。これを聞働いた。ひどい圧迫に歯を食いしばりながら如何なる迫害にも耐え忍んで絶えず潜行的活動を続けていた。 ……しかしながら、この最も勇敢にして、且つ最も信頼すべき同志であった和田君は、遂に秋田の牢獄 に倒れた。その日はミゾレ降る寒い日、冷たい床の中に亡骸を横たえて久さんは永遠に我等の戦線から消えた。享年36歳。   いた時に裁判官も傍聴人も新聞記者も、その場にいた全ての者がただ嘯然として頷いたのを諸君は記憶するであろう。彼の友情と正義心の前には支配階級の魔手たる裁判官と難も襟を正さざるを得なかったのである。

しかしながら、この軍閥福田暗殺計画にもまして和田君に就いて述べたい事がある。それは、彼が、僕等の運動に於て勤めた埋草的、捨石的縁の下の力持ち的役割である。それが最も彼の偉大なところではあるまいか。彼は常に運動のためには身を粉にして働いた。全く文字通り身を粉にして
同志諸君よ!彼の捨身的な実行を我等のものとして生かせ!
彼の捨石的努力を我等の信条とせよ!
これこそは和田君に対する唯一の手向けの花である。

「捨石的」という「評価」に対しては以前、Mさんから疑問が呈されている。