1909年4月13日

宮下太吉、クロポトキン幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文する。
宮下太吉の活動に関しては概略を執筆している。

http://www.ocv.ne.jp/~kameda/miyashita-2.html

<熟練の機械工であった宮下太吉である。1876年生まれ。小学校を卒業し、すぐに鍛冶屋に見習いにはいった。彼は社会主義文献に触れる前から労働者が置かれている環境に疑問を持っていた。『日刊平民新聞』を入手してからさらに労働者の組織化に目覚め、自分の職場に組合を結成し「亀崎鉄工所友愛義団」と名付けた。弁護人が残した大審院特別法廷覚書によると、宮下は法廷で次の様に述べている。「煙山氏の『無政府主義』を読みし時、革命党の所為を見て日本にもこんな事をしなければ、ならぬかと思いたり」予審調書では「私は社会主義を読み、社会主義を実行するに当たり、皇室を如何にすべきかとの疑問を持っておりました処、1907年12月13日、森近に会ったから、日本歴史に関し皇室の事を質問したのです。 …… 」森近運平から、後に早大教授となる久米邦武の『日本古代史』を見せられ、「皇室崇尊の思想は迷信である」と学んだのである。1908年1月には片山潜の講演会も地元で主催したが片山の議会主義には納得しなかった。2月には再び森近を訪れ、秘密出版されたアナキスト、ローレルの『総同盟罷工論』を貰っている。森近運平が『日本平民新聞』13号(1908 年2月5日号)に宮下の印象記を載せている>
<宮下は神格化された天皇の存在を打破するところから社会主義思想、無政府共産主義思想に近付いていった。宮下の眼には触れていなかったと思われるが、1907年の11月3日、すなわち天皇ムツヒトの誕生日に合わせて、サンフランシスコ在住の社会革名党員(幸徳が滯米中に組織化した在米日本人の党派)が『ザ・テロリズム』と題した新聞を配布した。その内容が「日本皇帝睦仁君に与う」というタイトルでムツヒトへの暗殺通告そのものであった。現実に暗殺を計画したというより日本の国家権力の追求が届かない海外から、脅かしをかけたというところであろう。11月3日当日にサンフランシスコの日本領事館正面玄関に貼り付けられたという。また日本国内にも送られたようである。一部が関東の社会主義者の家に残されていた>
<宮下はロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねたのであろうか。
第4回予審調書「まず爆裂弾を作り、第一に之を天子の馬車に投げつけて、天子も我々と同じく血の出る人間であるということを示したい。自分は、その決心を為して、是よりその計画を行なうべき旨を話しました」1909年2月13日に巣鴨平民社を訪ね幸徳に語っている。東京に向かう直前には、岡崎の書店で、古本の『国民百科辞典』を見つけ購入。薬品の性質や、火薬の製法を調べ始めている。
  押収された『日記』のメモによると、
  4月13日 「平民社」にクロポトキン著、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文。
  4月18日 『法律と強権』と共に受け取る。
  来たるべき社会のイメージを掴もうとしているのか。
  5月の中頃には「ソロリン」という火薬の合剤を調合する方法を把握している。
  5月25日には平民社から『自由思想』の一号を受け取り、同日幸徳あてに手紙を書いている。幸徳は同志からの通信はそのつど処分しているので現物は残されていないが、宮下がその主旨を供述している。
「研究によって爆裂弾の調合が判った………主義のために斃れる………」
5月27日、28日には『自由思想』一号を再び受け取る。
同、5月28日には菅野スガより「会って話したい」との通信が届く。
6月6日には千駄ヶ谷に移っていた平民社を訪ねる。>

 爆裂弾の製造を研究しながらアナキズム理論も学ぼうとし幸徳秋水に書籍の注文をしている。