『獄窓から』和田久太郎

秋田からの書簡
 大正十五年二月十一日
 一月十三日附貴翰十八日拝見。お察し通り、始めは雁の如く、次に鶴の如く、時経っては麒麟の如く、大いに伸首して待てり。しかも披見に及んで、僕よりの依頼せし事情の為に遅れたるを知り、恐縮、大恐縮、首は忽ち亀の如く引込み了んぬ。思ふに国元の兄共、僕達との交通を気味悪しとやと思ふ為めなるべし。又是非もなからんか。以後は不問々々。
 僕の手紙集発刊のこと素より異存なし、万事お委せせん。たゞ編輯者の参考までに我身を述べんか、手紙の提出は各持主の自由意志に任せ、しかも駄文、楽屋落ち等の抹殺に意を用ふべき事。広く集むべき事。近藤君に変輯の後見を願ひたき事。俳句和歌の類の、後に改めしもの多くあれば「あくびの泪」「鉄窓三昧」等によって夫々訂正されたき事。……
 単衣にレインコートの写真の僕に、福子さんが暖かくビロード服を着せて下されし由、お陰を以て極寒の獄中に在って風邪一つ引かず、有難う!!彼の写真は、逗子でも鎌倉でもなし、同じ相州の鵠沼也。確か十年の夏なりしと憶ゆ、大杉と共に鵠沼東屋旅館に滞在して「昆虫記」翻訳の助手をなせし時に、大杉が遊び半分に写せしものの一つなり。いま当時を追想し轉た感なきあたはず。魔子にも愉快なりし記憶の一つなるべし。
 ……
 送附を頼んだもの全部送るとのこと感謝に堪えず。ところで、もう少々無心を付け加ふ。半紙百枚を二百枚と訂正。東京監獄で使用していた「辞林」と年鑑とを同時に願へれば幸甚。古田(大次郎)君の遺稿も見たし。先きに依頼せし「俳句集」、もし適当のもの見当らねば、久米正雄君に僕が頼んだと云って、碧梧桐選のむ「続日本俳句鈔」二冊を借りられたし。
 小生の作業振り、其後、刮目に値す、御安堵あれ。即ち謹賀新正の餅の力、御馳走の力により2分の一の能力は忽ち五分の三と進み、加ふるに懐中湯たんぽを二個抱かさるに至り更に三分の二に騰り、二月に入ると同時に、課程の頂上に登りては落ち、登りては落つといふ姿なり。今一息、今一歩。
 僕の健康に対する奥山先生の御注意厚く受く。深く謝すの旨、伝声あれ。禅書は読めど、寒時には身を寒殺する底の悟道には達せず、静座、屈伸法、冷水摩擦を用ひて寒威と善戦なしつつあり。但し、苦笑を浮べて小音に申上ぐらく、大寒に入りて流石に些か屁古垂れ、四五日前、軽き脳貧血の気味にて一日横はれり、従って体重も少々減少。されど未だ、東京時代よりは太り居れば安神あれ。寒さの峠も既に越えしやに覚ゆ。積雪三尺を越えず、秋田としては例年になき暖冬といふ。こんな事で最初の冬を通過出来れば、先づ幸ひとすべき也。
 折々我家を訪問給はる教務主任、一日訪ふて曰く『ホホー、だいぶ雪が吹き込んだナ。いや、これが秋田の不思議ぢゃて。二重硝子の所でも矢張り吹き込んで来るのぢゃ、不思議ぢゃナ、ハッハッハッ……』と。けだし、秋田蕗よりも此の方がお国自慢のやうな口振りなり。されど、秋田を初めての小生には、不思議はこれのみなあらじかし。布に包める膝小僧の凍傷。夜、着布団の表皮の濡れることなど、可なり小首をひねらされたり。兼ねて聞き及びたれど、雪雷、氷雨、怒涛の如き烈風も珍らしく、雪の凍りついた窓硝子の美しさにも驚きたり。
 氷雨吹き込む窓を頼みかな
 水洟や冷々として骨を滴る
 湯姿を抱いて更に愚とならむ

 今日は紀元節で、御馳走を食ってお休みだ。恨むらくは相変わらずの曇天強風。君からの手紙№4の初め三行ばかり悪かったらしい。御注意々々と申す。
 狂體一首         柿色囚屋麿 かきのいろのひとやまろ
 足引きて首をちぢめて雪の降る
   寒む寒むし夜を独りかも寝む