草稿<金子文子と中西伊之助>のために

《柏木より》中西伊之助
O兄、
『朝鮮時論』をありがとうございます。……
O兄、金子文子さんは、とうとう自殺しました。それも既に新聞で御承知だらうと思ひます。公判の言ひ渡しを受ける一週間ほど前、私は妻と二人で面会に行きましたが、それが文子さんにたいする永久の別れだつたのです。今更らながら人生と云ふものが考へられます。あの若い、美しい文子さんが、一塊の骨となつて東京へかへつて来た時、私は文子さんのお母さんと池袋駅に出迎へに行つたのです。お母さんは、ともすると涙ぐみながら、生前の文子さんのことをもの語ります。私は、母と云ふものの尊さを思はないではゐられませんでした。
O兄、その翌日のことです。東京へかへつた文子さんの骨が紛失してしまひました。その結果が私や、文子さんの母さんたちまでも検束されねばならないやうなことになりました。私はお母さんたちと、半日池袋署に拘留されたのでした。なんのことだかさつぱり解りませんが、再び骨が発見れたので、家へかへつて来ました。暑い日の拘留は、文子さんへのなにかの手向けともなりませう。
         (八月十一日) 

中西伊之助金子文子に言及した最後のコメントである。中西と金子文子、朴烈の交友は22年夏から23年6月、そして25年11月か12月から26年3月までの短い期間であった。