こちらはAML投稿版の続き

朝鮮日報』はかつての旅順監獄跡に独房が遺され
アン・ジュングンの遺品が保存、展示されているこ
とを詳細に報告している。また「事件」の現場のハ
ルピンからの報告では
ハルビン市安升街にある朝鮮民族芸術館の1階には、
06年7月にオープンした安重根記念館がある。広さ500
平方メートルの同記念館は、安重根の胸像や手形、写
真など300点余りの資料を展示している。」
「06年1月、韓国の<安重根義士崇慕会>がハルビン
近くの広場に建てた安重根銅像は、中国当局によって
すぐに撤去されてしまった。一方、兆麟公園の西の隅に
は、記念館と同じ時期に建てられた小さな記念碑がある。」
 と設立に関与した記念館を紹介している。
 
 旅順監獄ではアン・ジュングンの刑死から26年後、
1936年2月21日、革命家シン・チェホ(申采浩)が日帝の東
アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で逮捕され
55歳で獄中病死した。
朝鮮史研究家、梶村秀樹がシン・チェホに触れた論文を
遺している。 

「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占
める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人
なかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評
価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、
申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然では
ないだろう」と評価されていることに言及している。
『申采浩の歴史学』≪思想≫誌掲載1969年 

 他の論文でも
「かれの写真を眺めていると、ふと中国の魯迅と日本の
夏目漱石と朝鮮の申采浩という連想が浮んだ。……三人
とも、ほぼ同じ世代の、状況と自己から目を離さなかっ
た、ほんものの知識人である。……人間的・思想的対比
としてそれほど突飛でないような気がしている。いずれ
にしても、ほかの二人とくらべて、あまりにも不釣合い
に、申采浩は日本では読まれていないというべきではな
いだろうか?」
『申采浩の啓蒙思想』≪季刊三千里≫第九号掲載1977年春
(アップ時の訂正×『近代朝鮮史学史論ノート』2008年4月10日)

肖像をアップ・以下にリンクされています
アナキズム運動史1936年2月21日。シン・チェホは日帝の東アジアにおける侵略と支配に抗する活動の中で弾圧され旅順監獄にて55歳で獄中病死した

またキム・ウォンボン
(金元鳳)が率いていた義烈団は宣言
文起草をシン・チェホに依頼した。それが「朝鮮革命宣言」
(1923年1月)である。
「朝鮮革命宣言」全文にリンクされています

 日帝に対する非妥協の闘争
の意思が強かったシン・チェホは
臨時政府イ・スンマンの腐敗に対する批判は強く臨時政府か
らは距離をおきアナキズムの立場で抗日武装闘争に加わった。
1928年4月、朝鮮のアナキストたちを中心とした東方連盟大会
から本格的にアナキズム革命運動に参加。爆弾製造所設置の
資金確保闘争の過程で台湾の基隆港で逮捕される。2年間にわ
たる裁判の後、懲役10年の判決を受け罪囚番号 411番をつけ
て旅順監獄に収監される。
1929年10年7日付けの『東亜日報』には
「その後日本無政府主義者幸徳秋水の著作一冊を読んで共鳴し、
東方無政府主義者聯盟に加入した 」と法廷での発言が掲載され
ている。
 アン・シュングンとシン・チェホは直接に出会うことはなかっ
たが幸徳秋水はアン・ジュングンとシン・チェホに間接的につな
がっている。


 幸徳秋水はアン・ジュングンの行為に対して漢詩を遺している。

  舎生取義
  殺身成仁
  安君一挙
  天地皆震

  

  生をすてて義をとり
  身をころして仁をなす
  安君の一挙

(神崎清『革命伝説 大逆事件の人々』3巻「この闇黒裁判」157頁の
記述。156頁には一頁、全部に安の肖像写真と秋水の漢詩を組み合わ
せた絵葉書の写真複写を図版として掲載)。

 また韓国の大学教員で夏目漱石
研究者である金正勲さんは
漱石の『門』に投影される国家イデオロギーの翳―冒頭場面
と「罪」の問題をめぐって―」(「社会文学」第23号、2006年2月)、

を執筆し「門」でのアン・ジュングンの事件の描写を考察し、私が指
摘をした幸徳秋水漢詩にも触れている。
 梶村秀樹はアン・ジュングンには言及をしていないが先に紹介をし
たように夏目漱石とシン・チェホに触れている。
幸徳秋水平民社による初期の社会主義社たちは日露戦争に対しての
平和主義と非戦の論理は展開していたが日帝朝鮮侵略阻止の立場は
強く主張できなかった。しかし1907年、東京に結集していたアジアか
らの革命家たちの影響を受け、当時は直接行動派と議会主義派に分裂
をしていたが共同の声明文を発表している。

1907年7月21日の<東京社会主義有志者決議>である。

「吾人は朝鮮人民の自由、独立、自治の権利を尊重し之に対する帝国
主義的政策は万国平民階級共通の利益に反対するものと認む、故に日
本政府は朝鮮の独立を保証すべき言責に忠実ならんことを望む」
『大阪平民新聞』『社会新聞』に掲載された。
 
 この背景には1907年夏に東京でインド、
中国の活動家を中心にして「亜州和親会」が発足したことが大きい。
安南、フィリピンの活動家も加わり、会合には日本の幸徳、大杉栄たち社
会主義者も参加、後に朝鮮の独
立運動家も加わった。

 その理念は中国の社会主義者、劉志培が一一月に執筆した「亜州現勢論」
(『天義』一一・一二号合冊号に掲載)に著されている。

「私はさらにアジアの被圧迫民族に次の二つのことを望みたい。

一 同時に独立すること    
二 政府を設けないこと
独立後は無政府の制度を行ない、人民大同の思想を用いて、あるいはバ
クーニンの連邦主義を採用し、あるいはクロポトキン自由連合の説を
実行して、人民の幸福を永遠に維持できるようにしなければならない。
これが被圧迫民族の人民が知らねばならぬことの二である」。
 
 アン・ジュングンが『東洋平和論』の執
筆時に「亜州和親会」や「亜州現
勢論」の影響を受けていたかは定かではないが、東アジアにおいて日帝
侵略を拡大せんとする時期に民衆の側は日本の初期の社会主義者も含めて
連帯を模索していた。
 日本政治史の研究家であるイ・キョンソクさんは社会主義者を中心とした
亜州和親会を評価し 

アジア主義的諸団体が主張する東洋平和のための台湾・朝鮮・満州支配
などの論理を根底から克服することができた」
と述べている。
 しかし日帝は1908年に金曜会屋上会演説事件や大杉栄堺利彦への無政
府共産の「赤旗事件」、幸徳たちにかけられた大逆罪弾圧をしかけ、1907
年の「亜州和親会」による連帯を破壊した。
イ・キョンソクさんは日本では知られていないジョ・ソアン(趙素昴)の活
動に論及している。(『平民社における階級と民族』)。 

同論文から活動期を抜粋する。
ジョ・ソアンは1904年に日本留学
1909年12月「大韓興学会」親日派売国的行為に対して国民世論を喚起、
ジョ・ソアンは宣言書を起草、
1910年5月抗日活動に対して『大韓興学報』は停刊処分
6月に「大韓興学会」は解散処分に追い込まれる
1912年帰郷 
1913年上海亡命、アジア連帯の動き、無政府主義の実践とも見える行動
亡命の動機「亜細亜弱小民族反日大同党」の結成にあった
亡命直後「新亜同済社」を創立「亜細亜民族反日大同党」を組織というが
ジョ・ソアンの日誌以外で確認がとれない。活動の形跡がみられない翌々
年ジョ・ソアンは韓国潜入中に逮捕される1916年再び上海に亡命「大同党」
の結成を推進
進捗せず、満州、沿海洲の朝鮮独立運動家との接触に奔走
1930年代に「三均主義」を理論化。朝鮮の主要な左右合作、民族独立運動
織の運動指針として採択、韓国臨時政府の綱領ともなる、
 

参考1 夏目漱石『門』該当箇所抜粋<青空文庫より>
『門』
「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入ったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。
「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後から冗談半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋の中に畳んである今朝の読殻を、後から出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、公けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃をポンポン連発したのが命中したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨そうに飲んだ。御米はこれでもができなかったと見えて、
「どうしてまた満州などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目な顔をして云った。御米は、
「そう。でも厭ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたいなような腰弁は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」


 AML投稿部分

2008年3月、韓国メディアのウェブサイト
日本語版はハルビン伊藤博文を射殺(1909
年10月26日)したアン・ジュングン(安重根)
に関する記事を3月前半から続けてアップし
ている。
 1910年に大連の旅順監獄で処刑された日が
今日の日付3月26日、命日が近づいていたこ
ともあり韓国政府が三月中にアン・ジュング
ンの遺骨発掘作業進めたいことを中国政府に
申し入れていることが報道されてきた。
 処刑後、アン・ジュングンの遺骨は監獄裏
に埋葬されたが墓を建立することは日帝当局
が認めなかった。そのため正確な埋葬地点が
判らないままであった。
 中国の当地地方政府が旅順刑務所の裏山一
帯の再開発を進めていることもあり、韓国と
朝鮮民主主義人民共和国の間では発掘の取組
みに関して2005年に合議、2006年6月に共同の
調査を実施された。中国政府としては共同し
た取組みを前提に発掘作業を認める意向を示
していたが25日からの発掘作業がようやく決
定したと報道されたが韓国政府単独の作業の
ようだ。
 アン・ジュングンが同時代の日本の社会主
義や作家にどのように触れられたかほとんど
知られることもなく100年近くがたつ。また
20世紀はじめ、東アジアの覇権を制しようと
した日本の強権に抗して闘争を担った革命家
シン・チェホ(申采浩)も旅順監獄で1936年2月
21日に獄死をしている。紹介したい。

以下のURLは『朝鮮日報』日本語サイトの特集記事
「大韓国人」安重根の思い
http://www.chosunonline.com/article/20080316000002
標石さえもない伊藤博文暗殺現場
http://www.chosunonline.com/article/20080316000007
http://www.chosunonline.com/article/20080316000008