成立策動をめぐる政治屋の動きが代議制の本質。

昨夜からのテレビニュースでも与党が民主対案の「丸呑み」というニュアンスで繰り返し報道され始めた。ところが今朝の『朝日新聞』では二面の片隅扱い(地域によりレイアウトは違うかもしれないが)。村上ファンドへの捜査が一面を大きく占めている。その二面では民主の動きから、小沢一郎発言として「こんな法律を通しても一文の得にもならない。慎重に対応を」と断片的に伝えている。しかしながら対案を提出し国会での駆引きに利用しようとした時点で共謀罪への民主の対応は規定されている。国対レベルでの取引で内容としては治安維持法をうわまわる弾圧法があっさりと成立して行く可能性が高い。「保留」状況の教育基本法も同様で臨時国会を待たずして「成立」を狙っているのであろう。憲法を改変する前に教育基本法で「国民を「愛国」心のスローガンのもと戦争国家に集団帰属させ、一切の人として、個人の差違を認めない社会構造を「公」に創り上げようとしている。
「成立」策動をめぐる本質を暴露するために街頭での反対行動、あるいはウェブでのアピールが求められている。
 
『市民の反抗』 H.D.ソロー 
「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」というモットーを、私はこころから受け入れるものである。また、それがよりすみやかに、組織的に実施されるところをぜひ見たいと思っている。それが実行に移されるならば、
とどのつまりは「まったく統治しない政府が最良の政府」ということになりこれ、また私の信念にかなうわけである。ひとびとが、このモットーを受け入れる覚悟ができたとき、彼らがもつことになるのは、まさにそのような政府であろう。 

政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。権力がいったん人民の手に握られたとき、多数者の支配<それも長期間にわたる支配が容認される実際的な理由は多数者がいちばん正しいと思われるからではなく、まして彼らが小数者に対していちばん公平であるようにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさっているからである。しかし、あらゆる場合に多数者が支配するような政府は正義の観念にたいする人間の理解に照らしてみても、とうてい正義に基礎を置いているとはいえない。多数者が、事実上、正、不正を決定するのではなく、良心がそれを決定するような政府、多数者は便宜上の規則が適用できる問題のみを決定するような政府>は、はたして存在し得ないものだろうか?市民はたとえ一瞬間であろうと、あるいはほんのひとかけらであろうと、自己の良心を

立法者の手にゆだねなくてはならないものだろうか?それならば、なぜひとりひとりの人間に良心があるのだろうか?  

人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。  

国家が個人を、国家よりも高い、独立し力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は、決してあらわれないであろう。すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家が、ついに出現する日のことを想像して、私はみずからを慰めるものである。
そのような国家は、隣人や同胞としての義務をすべて果たしている小数の人間が、国家に口出しせず、かといって歓迎もされず、そこから超然として生きてゆくとしても、それが国家の安寧を乱すものだ、などと考えたりはしないのであろう。
1848年1月コンコードの文化協会において「国家に対する個人の権利と義務」と題する講演を行なう。