No.21 安重根の絵葉書と神崎清 K



以下は神崎清(かんざききよし)『革命伝説 大逆事件の人々』3巻「この闇黒裁判」157頁の記述

156頁には一頁、全部に安の肖像写真と秋水の漢詩を組み合わせた絵葉書の写真複写を図版として掲載。

朝鮮の植民地化にのりだしてきた侵略の権力者に、自由と独立を欲する朝鮮民族の怒りを爆発させて、ピストルをうちこんだ革命家安重根の暗殺行為に対し、日本の社会主義者を代表する秋水が、正しい国際的な理解を示し、その民族的な犠牲の精神を高く評価していたのである。しかし、暗殺の評価と暗殺の奨励が、混同されやすいにしても、伊藤博文の暗殺をすぐ明治天皇の暗殺にむすびつけて考えるのは、どだい無理というものであった。

 

註 K「これは秋水が湯河原で逮捕され、じきに大逆罪の疑いがあるということで検察の一部が動き出すわけですが、絵葉書を所持していたことに対して官憲が強引に秋水が<暗殺主義>を有していたという論を展開するのは無理だろうということです。実際には検察がこの絵葉書には言及していないようですが」

 秋水の鋭敏な頭脳は、すでに日米戦争と日本の敗北を警告していた。ロシヤ革命と中国革命の成功を予言していた。この「安君一挙」の漢詩もまた、朝鮮民族独立の未来にささげられた文学的メッセージであった。朝鮮人は、日本帝国主義三十六年の圧制を非難する権利をもっている。が、それと同時に、非君主主義・非軍備主義をとなえ、朝鮮の侵略に反対しつづけて処刑された日本人革命家幸徳秋水の存在を忘れてはならないのである。

 略(明治学院大学で最近になって現物が発見されたという記述) 『革命伝説』は1969年発行

英語説明の訳文はつぎのとおり。

安重根 ハルピンで伊藤公爵を暗殺した朝鮮の殉教者である。この写真に見られるように、朝鮮の古い習慣に従って切断された左手の薬指は、弑逆の宣誓をあらわしている。写真の上部にしるされた文字は、卓越した日本の無政府主義者・幸徳伝次郎が書いた詩の複写で、殉教者の勇敢な行動を賞賛している」

 註 K 伝次郎は秋水の本名 秋水は号

サンフランシスコ平民社によるこの安重根の絵葉書の発行と配布は、朝鮮民族独立運動に対する国際的な連帯行動であった。逮捕された安重根は、カソリック教徒で、社会主義者ではなかった。日本の暴政が、平和を愛するクリスチャンのあいだから暗殺者をつくりだしたのである。安重根は、関東州地方法院で死刑の判決を受け、明治四十三年三月二十六日、旅順の刑場で死刑を執行された。

明治四十二年十一月十八日付けの『東京朝日新聞』によると、安重根は法廷で十五ヶ条にわたる伊藤総督暗殺の理由を訴えている。

 略 十五ヶ条の項目が全文掲載

項目を見ると、朝鮮半島における日本の帝国主義侵略と植民地主義支配の罪状が、マイクロ・フィルムのように複写されている。…

 朝鮮の安重根が処刑されて間もなく、日本の幸徳秋水が逮捕された。大逆事件の検挙が拡大していく嵐の中で、日韓併合が強行された。秋水のカバンから出てきたこの安重根の絵葉書は、大逆事件日韓併合、日本の革命家と朝鮮独立運動のかかわりあいを、歴史的背景として描いているのである。

 



05-04-29 05:59 수정 | 삭제 | 목록


Re : 安重根の絵葉書と神崎清 金 正 勳


 神崎清『革命伝説 大逆事件の人々』3巻「この闇黒裁判」16頁の図版をコピしたものがほしくなりますね。

 当時「秋水が、正しい国際的な理解を示し、その民族的な犠牲の精神を高く評価していたのである」と書くなんて、良心的でしたが、神崎清の『革命伝説 大逆事件の人々』3巻が出版できたことを思うと、奇跡のような感じがします。

 なぜ検察がその絵葉書には言及していなかったか、それは「伊藤博文の暗殺をすぐ明治天皇の暗殺にむすびつけて考えるの」と関係があるのではないでしょうか。秋水が安から刺激だれたことに対して、認めたくないという雰囲気が漂っていたと思われます。

 英語説明の訳文は生々しいですね。「サンフランシスコ平民社によるこの安重根の絵葉書の発行と配布」について詳しい内容はありますか。何枚ぐらいを配布したのでしょうか。

 面白い内容で、とても参考になりました。時々このところに来て再読したいと思います。



05-04-29 08:35

5と「おわりに」に再読しました K


一昨日、幸徳秋水安重根に関して、ごく簡単に

幸徳秋水の研究者の方々に問い合わせたことは

E-メールにてお知らせしましたが、やはり漢詩

触れた論文は無く、記述は神崎清の『革命伝説』

だけに掲載されているようです。

金さんの、「安重根と<門>」 を通して、私も1909年

から1910年に韓国と日本で、支配に対しての抵抗

の活動が、共鳴(意識せずに)していたことを再認識

しました。

下記のテキストは伊豆先生の掲示板に書いたものですが

再録しておきます。

18へのレス、馬場弧蝶に対応した内容です。

1912年、大逆事件後、初めての社会主義者たち
による雑誌『近代思想』に僅かだが、漱石の小説
に言及。

筆者は大杉栄と推測します。
(アルス版の『大杉栄全集』には収録されて
いないようですが)
 引用してあるように荒畑はインフルエンザ
で文章を書けるような状況にはなく、「最後
の二頁は大杉がやる筈」と語っています。


彼岸過迄夏目漱石著) 著者が曾て朝
日新聞紙上に連載した小説で、七篇の短編小
説が一つの長編小説に纏まつたといふ観もあ
り、亦著者自身もそういふ考へで執筆したと
云つて居る。「彼岸過迄」といふ題は、元日
から初めて彼岸過迄書く考からこう名づけた
に過ぎない。文章は相変らず巧いもので、新
聞連載中は例の廻り拗い筆に大分悩まされも
したが、偖てこう一冊に纏まつて見ると、そ
れが矢張り面白い。何時も乍ら装帳の好みは、
本文と共に洒落つ気の多い、道楽気の強い、
甚だ凝つたものである。(金一円五十銭日本
橋通四丁目春陽堂

 書評ではなく「新刊紹介」頁でした。
前頁は「大久保より」で編集後記を大杉栄
一人で書いています。理由は
「…インフルエンザにかかつて、……三十八
度から四十度にあまる大熱に苦しめられてい
る。……もう二頁だ。しかしそれは大杉がや
る筈になつているんだから、……」

「寒村の病気も大ぶ善くなつた。もう熱も平
熱になつた。しかしまだ口の中がただれてい
てロクに物が言へないのと、それに十幾日間
も流動物ばかり口に入れていたのとで、余程
からだが衰弱して、床のなかでひとりでジレ
ツタがつている。 十月廿四日

 本の紹介頁は他に安成貞雄「読んだだけ」
というタイトルで二頁。
 堺利彦バーナード・ショーの演劇の梗概
を寄稿しています。

 奥付は
大正元年十月廿九日印刷納本
大正元年十一月一日発行
 府下大久保百人町三五二
    近代思想社内
 編集兼発行人 大杉栄
 印刷人    荒畑勝三

 






05-04-28 22:29 수정 | 삭제 | 목록


安重根と「門」」の後書 金 正 勳

亀田博さん

 「こういう時期だからこそ、これまであまり省みられていない歴史、エピソードを踏まえた研究が必要」と勇気をつけて下さいましたから「安重根と「門」」が書けました。

 今は敏感な時期であり、韓日両国が互いに牽制している様子が確実に目に見えますが、こういう時だから、民間レベルでは<過去>の真実をぶちまけて、理解を深めることが必要ではないかと思って苦悩したあげく、研究者としての義務感から作業を始めたのです。

 両国は、辛い歴史の絆を抱き合って共存していかなければなりません。日本は、その辛い歴史を喚起させるようなことをしてはならないし、少なくとも侵略戦争が齎した創痕が、韓国のあちこちに刻み込まれているのだから、時には慰め、時には日本へ発する市民団体の言葉にも耳を傾けるべきではないでしょうか。

 それは韓日未来のため、必要なことです。理想的と言われる夫婦は、一時仲が悪くても、決して離婚に走るような無謀なことは一切しません。韓国は日本に一番近い国で、両国は夫婦のような存在です。過去に浮気をしたならば、それを反省し、二度とも繰り返さないのが夫婦の倫理ではないでしょうか。

 日本は韓国をもっと愛しなければなりません。愛のイニシアチブを持っているのは日本です。歴史を見ても、いつも加害者の位置に立っていたし、いち早く近代化にも成功し、経済のヘゲモニーも握っています。

 だから、私は日本を責めるのです。愛するから責めるのです。私の論文の趣旨を理解してもらえば何よりです。韓国の研究者は、少なくとも日本から離れています。そして韓国の風土から、作品読みを試みます。それが日本の研究者に伝わって刺激になることを願います。

 亀田さんからの資料を通して、安重根幸徳秋水との関係を確認したのは何より収穫でした。ありがとうございます。

 





05-04-29 07:48 수정 | 삭제 | 목록


『近代思想』 金 正 勳

 1912年の雑誌『近代思想』に漱石の小説について言及されていますね。アルス版の『大杉栄全集』に収録されていればいいのに。

 荒畑が書かなかったなら大杉栄でしょう。なぜ収録されていないでしょうか。

「文章は相変らず巧いもので、新聞連載中は例の廻り拗い筆に大分悩まされも
したが、偖てこう一冊に纏まつて見ると、それが矢張り面白い。何時も乍ら装帳の好みは、本文と共に洒落つ気の多い、道楽気の強い、甚だ凝つたものである」の部分を参考させてもらいます。




05-04-29 08:06 수정 | 삭제 | 목록


この二週間、<安重根と「門」>の掲載を楽しみにしていました Kameda Hiroshi

金正勲さま

安重根と「門」」の後書>、読ませていただきました。

私自身もこういう時期だからこそ、韓国と日本に住む人たちの関係史を再認識する

必要があると思い、11月にソウルで開くシンポジウムの準備を始めました。

一昨日、韓国から研究で来訪し、日本近代政治史を研究しているI.K.さん、日本人で

中国の近代文学を研究しているY.M.さんと私の三人で打ち合わせをし、ソウルの主催者

から提起された内容を検討しました。

大きな柱としては東アジアにおけるアナキズム思想としての自由共同体運動をめぐる

ものになり、そこに韓国と日本のアナキズム運動、韓国と中国のアナキズム運動も

テーマとして加わります。

人物として語られるのはイ・フェヨン李会栄、シン・チェホ申浩釆、白貞基、パク・ヨル朴烈、金子文子……になります。

 金子文子は日本でも長らく語られることが少なく、名前を出しても多くの日本人はどういう人物

かも判りません。

 だからこそ今の時期に金子文子たちのことを知らせて行く必要があるかと思います。

1922年、23年、さらに韓国の人たちにとって困難な時期に、金子文子は朴烈をはじめとした

韓国の人たちとの共同行動を求め、そして他の日本人の男女も集まった、不逞社という

グループの存在も少数の関心のある人たちしか知りません。

金さんが<安重根と「門」>に取り組んだように、私も繰り返し不逞社に集った人たちの

ことを考えて行きたいと思います。

この一、二年「インターネット」上で金子文子に触れる方も

何人か出てきていますが、最近私がアクセスした下記

のブログを運営している「よんじゃ」さんという若い日本から

ソウルへ留学している女性もその一人です。

時々、私もコメントを書いています。

http://yaplog.jp/marianoshugyou/archive/74#comments

http://yaplog.jp/marianoshugyou/

思えば一年以上前に「大逆事件」でインターネット上を検索し、伊豆利彦先生の

ウェブサイトにアクセスできたことが金正勲さんとの出会いにつながりました。

幅広く、熱意ある論考を持続しているウェブサイトからは学ぶことがおおかった

日々でした。伊豆さんにおおいに感謝したいと思います。

1926年ころに刊行された最初の大杉栄全集<アルス版>は、長い論文のいくつかも

編集上落としているので、「雑文」に近い無署名の「新刊紹介」は入る余地がなかった

のではないでしょうか。

アルス版を編集した近藤憲二さんは、後に堺利彦の娘である真柄(まがら)さんと結婚し、二人の

娘さんである近藤千浪(こんどうちなみ)さんは、『人名事典』の編集にも参加していました。

大杉栄の自叙伝の一部は、たまたま1923年の9月のはじめから『東亜日報』の文化頁に

連載されています。日曜ごとか?

大杉栄の『近代思想』掲載テキスト等は大杉のクロニクルの中にアップしています。↓

http://www.ocv.ne.jp/~kameda/osugi-1912-1913.html





05-04-30 01:22 수정 | 삭제 | 목록


Re : この二週間、<安重根と「門」>の掲載を楽しみにしていました 金 正 勲




亀田 博様

 シンポジウムの準備が大成功に行われるよう祈ります。政治史や中国文学の研究者も加わり、多様な視点から共同研究ができるわけですね。

 最近漱石研究においても、大逆事件が研究テーマとして浮上しているような気もしますが、全ての学問領域において規定された保守的な観点があれば、研究主体はそれを打破し、改めて究明することで、その分野の発展へと繋ぐことができるのではないでしょうか。

 金子文子と朴烈の愛は、両国の人々に色々な意味として蘇っていると思われます。韓国と日本の皆さんにどんどん伝わってほしいですね。私ももっと関心を寄せていきたいと思っています。

 21世紀はインタネットの時代だと思います。インタネットを通じての資料集めや情報の交換は必然的なものになるに違いありません。この掲示板がそれを証明しているのではありませんか。「安重根と「門」」の下書きもできましたし。

 ところで、アルス版を編集した人が、堺利彦の娘さんと結婚しているのでしょうか。そしてその娘さんが『人名事典』の編集にも参加しているなんて、思想的な結合で、血の繋がりですね。

 コピではなくて、神崎清『革命伝説 大逆事件の人々』(芳賀書店、1968)がほしいですが、すぐ買えるのでしょうか。




No.18 1909年3月 k


安重根たちが「断指会」を結成するのが、1909年3月と

金さんの書き込みで記されていましたが、この時期

東京では、後に天皇打倒の盟約を結ぶ、管野須賀子、新村忠雄、

宮下太吉の出会いがあります。

1909 2月13日 宮下太吉、平民社巣鴨を訪ねる、新村忠雄と会う

1909 3月18日 平民社千駄ヶ谷へ移る、管野すが住み

別の話題になりますが

漱石が小説中に、社会主義者に触れるのは電車賃値上げ反対事件

と間接的に幸徳秋水への監視が厳しいという話題だけですが、啄木

は公表できなかった文章で、幸徳事件からさかのぼり「赤旗事件」の

管野須賀子に触れています。

部分引用ですが、

「所謂今度の事」 石川啄木  『石川啄木全集』筑摩書房 1980年刊 第四巻



 (一)

 二三日前の事である。途で乾を覚えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さな卓を囲んで語っている三人連の紳士が有った。私が入って行くと三人は等しく口を噤んで顔を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を点け、口を潤し、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かった。

 やがて彼等は復語りだした。それは「今度の事」に就いてゞ有った。今度の事の何たるかは固り私の知らぬ所、又知らうとする気も初めは無かった。すると、不図手にしている夕刊の或一処に停まった儘、私の眼は動かなくなった。「今度の事は然し警察で早く探知したから可かったさ。焼討とか赤旗位なら魔だ可いが、彼様(あん)な事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」……

 …彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。

 (二)

 ……

其の一つは往年の赤旗事件で有る。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して。警吏の為に捕われた者の中には、数名の年若き婦人も有った。其婦人等──日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、万に控え目で有るべき筈の婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

管野須賀子の獄中手記は下記サイトに部分アップしています。

http://www.ocv.ne.jp/~kameda/kannosuga.html



05-04-23 05:02 수정 | 삭제 | 목록


「明暗」の小林と原 金 正 勳

漱石は、「明暗」の小林を通じて社会主義を本格的に触れいている感じがしますね。

小林と彼の友達原を具体的に追っていくと、面白いものが出そうです。去年韓国の大田から釜山へ行くKTX(高速鉄道)の中で、伊豆先生と「明暗」の小林について、興に乗じて話を交わしましたが、いつかそれを纏めていきたいと思っています。1909年3月前後宮下太吉らの活動、参考になりました。





05-04-24 06:20 수정 | 삭제 | 목록


私の感想ですが K

 私の小林へのイメージは「脱落」しつつある社会主義者というものを

感じます。

 漱石は再び、小林を登場させる企図はあったか否か?

現実社会では1914年3月、『反響』創刊前の集まりに漱石

出席していればそこにいた堺利彦(小宮山豊隆と同郷)と初め

て会えたはず、という記述があります。

松尾尊兌 (たかよし)『大正デモクラシーの群像 』

岩波同時代ライブラリー

 



05-04-24 20:56 수정 | 삭제 | 목록


人名の訂正、馬場弧蝶など K

小宮山豊隆 × → 小宮豊隆

松尾尊兌 (たかよし) さんの、上記『大正デモクラシーの群像』

に収載の「夏目漱石」が書かれたのは1960年代であった

かと思います。

そこには、『彼岸過迄』が、大杉栄荒畑寒村が刊行していた

『近代思想』2号の書評欄に「…おもしろい」と紹介されている

ことが記されています。

 評者が堺なのか大杉か荒畑かは書いていないので

『近代思想』復刻版で確認してみます。

松尾が主張したかったのは、大逆事件後に

生き残った、社会主義者たちと漱石に直接のつながり

はないが、間接的な関わりや緩やかな相互のシンパシー

があったということではないかと思います。

1915年3月の衆議員選挙に立候補した評論家、馬場孤蝶

の応援のための『弧蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』

が刊行されますが、それに漱石学習院での講演「私の個

人主義」の原稿寄付を(初出誌となる)したということが紹介さ

れ論じられています。

 

馬場弧蝶は大杉栄の第一論文集『生の闘争』(新潮社)

の序文を書いています。



05-04-25 22:25 수정 | 삭제 | 목록


漱石社会主義 金 正 勳





 評者が堺なのか大杉なのか調べていただきたいし、『近代思想』復刻版でその部分をコピしてほしいですね。

 確かに漱石社会主義との関連においては、これと言えるほどのものはないと思います。しかし、その時代の様々な出来事を意識すれば、見逃しはしたくないです。しかも、全体的な学問領域からみても、社会主義への研究が盛んに行われてこなかった背景もあるでしょう。そこには日本の風土という問題があると思われます。

 『明暗』に小林がいるなら、『彼岸過迄』には森本が登場します。1916年書かれた『明暗』の小林より、その4年前に現れている森本は、その影が薄いとはいえ、彼にも社会主義者たる姿が窺えます。彼も、亀田さまのご指摘のように、「「脱落」しつつある社会主義者」でしょう。

 しかし、小林と森本が登場することによって、小説がもっと面白くなるばかりではなく、漱石の小説において非常に重要な役割を果たしています。言ってみれば、彼らは「大陸放浪者」です。日本に這入ってくる近代のメカニズム、上滑りの資本主義に適応できず、満州(朝鮮でもいいが)へ渡ってしまう逃亡者であるのです。『門』の安井も同様で、満州(朝鮮)の意味を探りながら、漱石の作品に登場する、このような「「脱落」しつつある社会主義者」を追っていくのも、面白いでしょう。

 大逆事件後、漱石社会主義者たちと縁を持っていたという話は聞いたことがありません。だが、彼はつねに意識的であったに相違ありません。今は、それを明かしていける、しかも明白にしていかなければならない時点だと思います。





05-04-26 06:56