2006-11-01から1ヶ月間の記事一覧

栗原一男と署名がある古書を入手。宛名人の名が判読できず。1931年7月と栗原が編集した『何が私をかうさせたか』金子ふみ子。金子文子の獄中手記を栗原が編集したのである。書店主は書込みがあるということで価格を抑えていた。むしろ編者の名が入っている方が「価値」があると思うのだが、古書の世界では異なるのか。現代作家でも一部の作家を除けば署名入りは価値が下がるようだが、歴史的な書物に関しては異なると思う。

昨日、知人の手術は無事終了。

1922年11月8日。大杉栄書簡、伊藤野枝宛。

「…おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様…

韓国「真実・和解のための過去事整理委員会」のメンバーと懇談。

1913年11月7日。大杉栄、山本飼山の葬儀参列。荒畑寒村による<大久保より> 「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……山本は早稲田大学を出ると、ぢきに今度の最後を遂げて了った。……」11月28日 『近代思想』12月号(調査書記載無し)

1925年11月6日。望月桂、近藤憲二、秋田刑務所の和田久太郎に面会。

1926年11月5日。金子文子の遺骨、朴烈の故郷、ムンギョンの山中に埋葬される。

金子文子の遺骨は予定の5日午前10時埋葬を変更して午前9時遺骨保管中であった聞慶警察署において義兄朴廷植に交付し即時同署警察官2名付添ひ午前十時墳墓所在地慶北聞慶郡身北面八霊里(聞慶邑内を去る西北2里)に到着し同十一時埋葬に着手し午後三時埋葬を…

1927年11月4日。『黒色青年』14号発行。「東北黒色青年連盟演説会」

10月31日、我等は結盟の日を機とし、自由連合組織、無政府共産主義に就いての演説会を開催した。関東黒色青年連盟よりは10数名の同志が応援し、黒旗は奥羽の空に北風となびく。我等が絶叫の足跡は、東北の地の至る処に意義強く及ぶであろう。 仙台市、公会堂…

前夜2日夜、小海線の線路を三度横切り、信濃の川上から登山口につながる林道にて宿泊。3日早朝、6時半に登り始める。蟻ヶ峰に二時間余りで着く。標高1978m、直登に近いルート。

アップダウンを繰り返し、3,40分で日航機墜落地点の斜面の上方の尾根に出る。元来、ルートがないところを事故直後から移動のルート確保のために道筋がつけられた。急斜面を30分下降。辺りに墓標が見え始める。大きな立ち木が炭になっている。

これから御巣鷹山周辺の山歩き。標高2,000m近い。

今月、韓国から「真実・和解のための過去事整理委員会」のメンバーが来訪。事前調査で協力。グループの来訪時にも幾度か懇談予定。

高齢の知人は明日、肝硬変による食堂静脈瘤の手術をすることになった。瘤をゴムで結ぶ手術を内視鏡を使用して行うと、説明される。退院後は住居の確保が課題であるが、宿泊所というNPOが運営するところに行政の生活支援の提案により入居。住居は十数年前に私が不動産屋を十軒回り、ようやく探したところであるが建物自体の取り壊しで退去を一年前から言われ延ばしてきた。宿泊所は複数人との生活。アルコールを飲むことは一切禁止。それ以前に肝硬変であるから医師からも当然ながら厳禁を言いわたされている。摂取を続けることは緩慢なる自殺とな

1922年11月1日大杉栄ら『労働運動』9号発行

大杉栄ら『労働運動』9号発行、印刷人 近藤憲二(労運社住所と同) 。主要記事<革命の研究6>大杉栄<編集室から>■逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の…