転載、保坂展人ブログより、共謀罪「民主党案丸飲み」で宙返り採決か

速報 国会報告 / 2006年06月01日
共謀罪の迷走が深まっている。昨日の夜、与党で共謀罪は「継続協議」が決まったというニュースが流れたばかりだが、与党側が突然に方針転換して「民主党案の丸飲み」を決めた。しかも、民主党案の提出以後に明らかになった問題点についても「追加修正」もOKだと言う。いったい何が起こったのか。頑なに「条約との整合性」を唱えていた与党は、明日提出予定の民主党の再修正案(これまで出していた修正案に新たに加筆)に賛成するのだという。さっそく、明日の午後1時に法務委員会が開かれて、野党のみ2時間の質疑への「政府の答弁」を見て採決の可否を判断すると民主党は与党に応答した。社民党は、拙速な会期末のドデン返しに疑念を抱き、朝令暮改の刑事法新設をドタバタでやるべきではない。今回は廃案にすべきだと記者会見した。

この仰天情報は、午後3時すぎに本会議場で耳に入ってきた。衆議院本会議場で憲法改正手続き・国民投票法案(自公案・民主案)が趣旨説明され各党の代表質問が続いている時に、細田国対委員長が渡部国対委員長に「民主党案を丸のみするから、この国会で成立させてくれ」と告げたという。誰がどの時点で判断したのか?

夕刻5時、本会議終了後に法務委員会理事会が行われた。与党側からは、「会期末でもう時間がない。実務者協議で協議整わなかった。ずばり、民主党の掲げている『5年を超える長期刑』(与党は4年以上と主張)と『越境性』の部分についてこれまでの考えを変えて、与党として賛成します」と提案があった。この2点だけではなくて、与党が出した再修正案(5月19日提出)を撤回して、民主党の修正案に賛成することを明らかにした。さらに、新たな問題点も今晩中に修正して明日までに提出してほしいとの白紙委任状態。

おいしい話には裏がある。さっそく、「なるほど」と思える納得情報が飛び込んできた。いったん無理に口をこじ開けて「丸飲み」をした民主党案(再修正案)を秋の臨時国会で「吐き出す」(再び与党が修正=元に戻す)という噂だ。「肉を切らせて骨を切る。メンツも何も関係ない。とにかく一回は民主党も含めて国会を通してしまうことが大事だ。その後で、条約批准が出来ないから修正したいと言う話なら民主党も強く反対出来ないだろう」と読んでいるのではないか。ドテン返しで、切られたふりして、オセロの大逆転の如く秋にやり返す。その時には、メンツを重んじる小泉総理は官邸を去っているという仕掛けだ。

当然、国会の権威は地に堕ちる。(今でも相当に堕ちているが) 野党第一党を騙して有頂天にさせ、ハシゴを外して共犯関係に持ち込むという与党シナリオに乗るべきではない。この国会の最重要法案で野党共闘の目玉に成長した「共謀罪」のちょうつがいが外れると、教育基本法国民投票法なども息を吹き返し、どのような展開になるか分からない。内閣不信任案の出しようもなくなる状況の混沌の中で国会が閉幕し、後は自民党総裁選挙一色では小泉総理・自民党の思うがままではないか。

明日、大きな山場を迎える共謀罪。廃案一歩手前で迷走する共謀罪を抱えて走る政府・与党に根底的な疑問を突きつけたい。

成立策動をめぐる政治屋の動きが代議制の本質。

昨夜からのテレビニュースでも与党が民主対案の「丸呑み」というニュアンスで繰り返し報道され始めた。ところが今朝の『朝日新聞』では二面の片隅扱い(地域によりレイアウトは違うかもしれないが)。村上ファンドへの捜査が一面を大きく占めている。その二面では民主の動きから、小沢一郎発言として「こんな法律を通しても一文の得にもならない。慎重に対応を」と断片的に伝えている。しかしながら対案を提出し国会での駆引きに利用しようとした時点で共謀罪への民主の対応は規定されている。国対レベルでの取引で内容としては治安維持法をうわまわる弾圧法があっさりと成立して行く可能性が高い。「保留」状況の教育基本法も同様で臨時国会を待たずして「成立」を狙っているのであろう。憲法を改変する前に教育基本法で「国民を「愛国」心のスローガンのもと戦争国家に集団帰属させ、一切の人として、個人の差違を認めない社会構造を「公」に創り上げようとしている。
「成立」策動をめぐる本質を暴露するために街頭での反対行動、あるいはウェブでのアピールが求められている。
 
『市民の反抗』 H.D.ソロー 
「統治することのもっとも少ない政府こそ最良の政府」というモットーを、私はこころから受け入れるものである。また、それがよりすみやかに、組織的に実施されるところをぜひ見たいと思っている。それが実行に移されるならば、
とどのつまりは「まったく統治しない政府が最良の政府」ということになりこれ、また私の信念にかなうわけである。ひとびとが、このモットーを受け入れる覚悟ができたとき、彼らがもつことになるのは、まさにそのような政府であろう。 

政府とはたかだか、ひとつの方便にすぎない。権力がいったん人民の手に握られたとき、多数者の支配<それも長期間にわたる支配が容認される実際的な理由は多数者がいちばん正しいと思われるからではなく、まして彼らが小数者に対していちばん公平であるようにみえるからでもなく、結局のところ、彼らが腕力においてはるかにまさっているからである。しかし、あらゆる場合に多数者が支配するような政府は正義の観念にたいする人間の理解に照らしてみても、とうてい正義に基礎を置いているとはいえない。多数者が、事実上、正、不正を決定するのではなく、良心がそれを決定するような政府、多数者は便宜上の規則が適用できる問題のみを決定するような政府>は、はたして存在し得ないものだろうか?市民はたとえ一瞬間であろうと、あるいはほんのひとかけらであろうと、自己の良心を

立法者の手にゆだねなくてはならないものだろうか?それならば、なぜひとりひとりの人間に良心があるのだろうか?  

人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。  

国家が個人を、国家よりも高い、独立し力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は、決してあらわれないであろう。すべての人間に対して正しい態度でのぞみ、ひとりの人間を隣人として敬意をこめて扱う国家が、ついに出現する日のことを想像して、私はみずからを慰めるものである。
そのような国家は、隣人や同胞としての義務をすべて果たしている小数の人間が、国家に口出しせず、かといって歓迎もされず、そこから超然として生きてゆくとしても、それが国家の安寧を乱すものだ、などと考えたりはしないのであろう。
1848年1月コンコードの文化協会において「国家に対する個人の権利と義務」と題する講演を行なう。