『放浪記』関連 <本郷・駒込アナキズム界隈>

新山の墓碑を探す過程で、本郷・駒込という地域がアナキズム運動、アナキストたちにとって縁が深いことを認識させられた。
 東京の旧芝区の範囲で過ごし、西の世田谷に移り住むという経験の中で本郷・駒込は私個人にとって「空白」の地域であった。何しろ実際の東大構内、安田講堂を目にしたのも4,5年前という有様である。山手線の内側といえば判りやすいかもしれない、少し範囲はずれるが、江戸の大木戸を基準にすると芝と本郷・駒込は対角線の対を成す。
最も遠い距離であつたのだ。都電が縦横に走っていた頃ならば品川から上野に行く1番の路線に乗れば一度の乗り換えで行けただろう。
地下鉄の線が増え、複雑化した近年でもようやくいくらか時間が縮まった程度である。
そういう認識であり不勉強も含めて、これまで白山上という地名が出ても、位置関係が曖昧であった。ようやく、新山初代が住んでいた蓬莱町を探索する過程で、はっきりと
「場所」が見えて、認識できたのである。俄かの本郷・駒込知識で偏っていることを前提にうけとめて頂きたい。望月桂さんに関しては小松隆二さんの15年前に刊行された『大正自由人物語』に全面的に参考にしている。
五十里幸太郎という存在も、不思議である。運動の周縁で人と人を繋ぐ役割を為してきたのである。また下宿家が密集していたこともあり、アナキズム系の詩人たちの生活域でもあった。一時、「放浪記」の時代の林芙美子も大きな存在を果たしていたようだ。萩原恭次郎も意外なアナキストたちとの繋がりを後に発表した詩や評論の中で垣間見せている。小野十三郎も交遊がなかったようだが、実際行動のアナキストたち、彼女彼らを表現している。この界隈で有名な「南天堂」は確かに詩人たちを軸にして捉える限りでは大きな存在であろうが、「へちま」「ゴロニヤ」という短期に終わった「場」も含め「三角二階」「渡辺宅=北風会」「労働運動社」「望月桂宅」「新山初代宅」「観月亭」「三宜亭」の存在もアナキストたちが地域の中を「彷徨」するのに大きな役割を果たしていた。まず1916年から17年、北風会、労働青年の時代がある。
「三角二階」や「へちま」の時代。
渡辺政太郎、望月桂、久板卯之、五十里幸太郎
大杉栄伊藤野枝は本郷菊富士ホテル(菊坂)

1923年から1925年を中心に
和田久が福田雅太郎を狙撃したのは、福田が関東大震災直後における、
戒厳令下の現場責任者という理由である。
狙撃は失敗した。菊坂を半分下ると、長泉寺に向う。

古田大次郎は本富士署にエヤー・シップ缶爆弾を投げ込む。
1924年9月3日
1924年7月19日谷中共同便所で試爆

24年はアナキスト詩人たちの南天堂時代
辻潤も出没
黒猫看板おでんや「ゴロニヤ」も流れに乗っている。

蓬莱町18
新山初代は南天堂を訪ねたか不明。萩原恭次郎も蓬莱町に下宿していた。

根津・団子坂
友谷静栄と詩集「二人」を発行
岡本潤は短い時期に友谷静栄と同居
岡本潤は宮島と同行して和田久太郎に面会。宮島資夫全集「月報」での回想。
小野十三郎は5,6年友谷静栄と同居
小野は林芙美子に良い印象は持っていなかった。
「奇妙な本棚」で回想。
萩原恭次郎は詩「市ヶ谷風景」において、古田大次郎を「大ちゃん」と呼ぶ
林芙美子は恭ちゃんと呼ぶ仲、小野のエッセーでは短期同居していたと記述
萩原恭次郎の評論、「学生街は美しい」燕楽軒を特別の場所と匂わせている

駒込アナキストを呼ぶ
片町の「労働運動社」
近藤憲二
根津の望月桂宅
谷中の「へちま」
五十里幸太郎は全てに通じて存在感を示している。
岡本潤経営
黒猫看板の「ゴロニヤ」おでんや
五十里幸太郎
林芙美子
百瀬晋

前史
「北風会」
1916年7月
望月は久板に紹介されて渡辺政太郎に初めて会う
白山上に向かって坂の途中右手、古本屋
小石川区白山前38 二階六畳間
<寺島珠夫は有明堂としている>
から東片町82番地「三角二階」に移る
1917年後半に渡辺は指ヶ谷町<92番地>に移る
白山上から坂をだいぶ下ったところで途中で左手に
折れた路地の奥、釣堀屋の隣の小さな家であった。
1918年5月17日に亡くなる
1919年3月、研究会は有吉の座談会と合同。
北風会となる。
1922年、渡辺宅に黒瓢会がおかれる

『労働青年』
最後の二号は「へちま」と望月桂宅が
連絡先

『大正自由人物語』小松隆二
1988年8月発行、岩波書店刊行、2600円
望月桂
45頁
3民衆美術の創唱
谷中へちまの閉店
東京お茶の水下、猿楽町で氷水屋をはじめてから4ヵ月たった1916年9月、
望月桂夫妻はその店をたたんで、谷中の善光寺坂に同じ店名で今度は一膳飯屋、
つまり簡易食堂を開業した。
 谷中といえば、寺町。…
弥生町方面から谷中墓地方面に向かって旧都電停留所宮永町交差点をわたると、
ほどなく善光寺坂がはじまる。その緩やかな坂を上りかけたすぐ左手にでてくる
曹洞宗名刹である。そはの道を隔てた真前がへちまであった。正確な地番は下
谷区谷中坂町21番地。現在の台東区谷中1丁目2番17号にあたる。今もその同じ場
所に、外見こそ違え、ほぼ同じ大きさの二階家が残っている。1944年以来住みつ
いている「クスリの松田」の看板を掲げた松田家の店舗である。


「腹がへってはどうもならん、先づ食ひ給へ飲みたまへ。腹がほんとに出来たなら、
そこでしつかりやりたまえ」
48頁
常連
宮崎安右衛門、久板卯之助、添田唖蝉坊辻潤、和田久太郎、五十里幸太郎、菊池
暁汀
その日の食べ物も、金もない貧乏社会主義者や労働者がやってきてはツケで飲み食い
をはじめるのだが、そのツケも、踏み倒される方が多くなっていく。
宮崎の連れてきた行き場のない老人に同情したばかりに、一ヶ月も居候をされ、宿と
し三食を無料提供せざるをえない羽目に陥ることもあった。
望月夫妻はといえば、借金に追われ、お客の残飯を食する貧乏生活の毎日であった。

49頁
平民=民衆の生活と美術の関係を考える機会を与えられた。たとえば、まず店にやって
来る自由人、社会主義者からは社会的な目と認識を通して生活や美術を受け止める方法
を少しずつ学んだ。



56頁
1917年2月平民美術研究会
   3月平民美術協会

久板卯之助と望月が中心
毎週日曜にへちまの二階

1917年7月閉店1916年末から17年初めにかけての足跡こそ、日本におけ
る民衆美術運動の最初の第一歩となるものであった。そしてその記念す
べき本拠が、小さいながら、谷中坂町のへちまであった。
時期的には

アナキズムの時代>
183頁
「地理的にも人間関係の上でも基点になる位置にいたといってもよい」
駒込千駄木町の家には、大杉、近藤憲二、和田久太郎、村木源次郎ら、
彼らとやや傾向の違う宮島資夫、中浜哲古田大次郎、朴烈、金子文子
ら、また正進会、信友会などの組合員もよく顔を見せた。

久板
25日望月たち三人が湯ヶ島に到着
部落に着いたのは夕方、寝棺に納められていた
この夜火葬
26日遺骨を受け取る、現場確認
27日夜東京に戻る
31日夜神田で告別式、追悼懇談会
2月18日大阪で追悼会村木が参加
6月9日浅草で追悼会
『労働運動』1922年3月3-3追悼特集
石碑建立
久板卯之助終焉の地
1972年頃明美が甦らせる
『労働者』8号1922年2月久板の「美術観」を紹介

小野十三郎「奇妙な本棚」<賭と恐怖>
………… 汽車の鉄橋を渡る冒険とか、高い崖の上やビルの屋上でのメンタルテストとか、このような化物屋敷の中にはいっていって味わえるスリルなんてものは、人生の重大事に面した場合のそれにくらべると取るに足らないものだろうが、わたしが、青年時代からいまなお今日に至るまで、革命とか、革命運動の中にあって人間が示す異常な行動心理に強い魅力を感じるのも、この自分をときに危険な状態にさらしてみたり、恐いものほどのぞき見たいという気持ちと決して無関係ではないのだ。革命をムードとして見れば、それはたしかに一つの危険な状態であり、大いに恐がっていいものであることはまちがいないだろう。詩を書きはじめたころは、特にわたしはこの不安で危険に満ちている革命のムードに、ある一定の距離をおきながらもあこがれた。それは、わたしにとっては、レールをつたってながれてくる汽車の車輪の音をききながら鉄橋をわたるスリルに通じるものであり、立っている断崖の突鼻へ自ら一歩二歩とひきつけられていく誘惑に似たものであり、昔、化物屋敷の「八幡の藪しらず」の中で味わった怪異でもあったのだ。、事実、そのころ、わたしが、直接間接に接した革命運動の闘士(その多くは無政府主義者だが)の中には、対人的に、第一印象としては、そういう不安と恐怖感のごときものをあたえる人が多かった。革命的詩人とよばれる者たちのポーズにもわたしはそれを感じた。しかもその恐そうな人たち、あきらかにわたしがそれまで親しみ交わっていた友人知人たちとは異なる精神構造を持っている人間が、わたしにはなんとはかり知れざる魅力を持っていたことか。わたしはつとめて彼らに近より、彼らに気に入られるように努力し、そこで自分というものをためしながら、いつかは同志として対等のつきあいができるようになることを念願した。すなわち、当時わたしのぐるにいた革命家諸君は、老いも若きも、経験と認識のすべての点で、また、おそらくはその勇気において、わたしよりみんな大人であった。大杉は別格として、そのような人物の中で、いまわたしが想い出すのは中浜鉄と古田大次郎である。この二人のアナーキストはわたしの出生地大阪にもかんけいがあったにもかかわらず、生前には一度も会ったことがないが、「赤と黒」の仲間などを通じて、彼らの人となりをきいて、なんとなく親しみをおぼえるとともに、当時わたしは、凡そ革命家とよばれる人間の理想的な典型を彼らにおいて見ていた。正直に云うが、わたしの頭の中にある革命家のイメージは、いまでも爆弾を抱いたテロリストのそれと、どこかではなれがたく結びついているのだ。その意味で、先日見たルネ・クレマンの「生きる歓び」というフランス映画に登場してくる時限爆弾をかかえた二人の髯面の無政府主義カリカチュアとしても、これは少し大時代すぎたにせよ、単にわたしだけでなく、イタリヤやスペインやフランスなどにおいては、革命と云えば、それは今日でも、テロや爆弾のイメージをよぶ心理的伝統のごときものが抜きがたく存在しているようだ。…………
 

岡本潤
「閃光」
真黒い闇の壁が俺達の前を塞いでいる
身をもって壁にぶっつかって行った友は
閃光をのこして闇に呑まれて行った
一人、二人、三人……五人……十人……
闇は吸盤をもって俺達の同志を吸いこんだ。
光は幾度か閃めいては消えた
闇は黒さを増して行った
重苦しい血の歌は俺達の胸に唸っている
閃光と共に消えた友の最後の絶叫は俺達の胸にある!
  (和田久太郎君の追悼会の日に)
小野十三郎
<一夜の回想 岡本潤全詩集に寄せて>
………
きみの姿を最初に見たのは
あの白山上の大学の教室だった。
……
深夜に降っている
雨の音をききながら
過ぎこしかたを思っていると
一枚のペン書きのハガキが眼に浮んだ。
「おもしろかった、この感覚の鋭さは、だが……」
それはきみからはじめてもらった便りだった。
きみは偶然読んだ私の詩をそういう風に批評してくれた。
私が大阪から上京して
本郷通りの路次裏の下宿屋にいたころだ。
文学について語り合う友もなく
大杉の「正義を求める心」や
辻潤の「ですぺら」が唯一の友だったとき
きみのこのハガキにある「だが……」から
私は強い衝撃を受けた。
いま、また、そのときのことを想い出している。