[内容紹介]

彷書月刊』2月号 特集「金子文子のまなざし−もうひとつの大逆事件

 「金子文子の朝鮮−ムンギョン、山梨をつなぐその思想」より
……飯田徳太郎というアナキスト詩人が大審院判決後、金子文子に面会に訪れた人たちのことを語っている。「朴烈と文子とに死刑の宣告のあった翌日三月二十六日の正午頃、僕は市ヶ谷刑務所の面会人控室横手の、砂利を敷きつめた庭で、暖かい陽光を浴びながら、同じく朴烈や文子に面会に来た七、八人の人々と雑談を交えて居た。中西伊之助君の婦人と僕を除いた外は皆朝鮮人ばかりであった。……」
「文子に会いに上京した母親 」(『婦人公論』二六年五月掲載)。
 ここには金子文子、朴烈の裁判を支えていた人々が主として朝鮮の同志であったことが語られている。
 飯田が一時同居していた平林たい子も文子から「リャク」を教わったという回想を書いている。
「私をはじめてそういう所へ連れて行ってくれたのは、死んだ、朴烈事件の金子文子であった。……私達は、銀座の××時計店へずかずかと入って行った。〈人参を買って下さい〉と文子氏は唾を飛ばす様に言った。……〈何? いらないって? 私を誰と思っているんだい?〉文子氏はそんな言葉で言って『不逞鮮人』という雑誌を包みの中から出しかけた。……〈朴文子ですよ〉と文子は落ち付いたものだ。……」
(「金が欲しさに」初出二八年『婦人公論』一二月)…


参考 ウェブサイト「金子文子の生き方」
http://www.ocv.ne.jp/~kameda/index3.html