平民社訳<幸徳秋水訳>、クロポトキン著『麺麭の略取』

[1909年1月29日 警視庁、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を差し押さえ、20部]
[アナキストたちの記憶]http://d.hatena.ne.jp/ichigaya/

 実際には以下の坂本清馬が回想しているように前年の12月半ばに印刷を終え、配布を終えていた。

 アナキズム文献翻訳事始め <98年10月21日メモ 99.2.28>から一部転載
http://www.ocv.ne.jp/~kameda/anarchismbook-bread.html 
 …クロポトキンの著作は当時、大杉栄、大石誠之介も部分的に訳していたが一冊の書物としてまとめられ、出版されたのは、この「明治」43年1月31日刊平民社版が最初であった。
 …坂本清馬は「『麺麭の略取』刊行者としての思い出」で語っている。「12月の半ばであったカ、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数日続いた。」

『麺麭の略取』刊行者としての思い出」坂本清馬   
 わたしが寺の町、橋の町ともいうべき水都広島から東京に帰って、巣鴨平民社に行ったのは、明治41年11月の初めであった。…それから最も困難で且つ最も重大な秘密出版もやるという風に、文字通り寝食を忘れた猛活動であった。 「12月の半ばであったか、ハッキリ覚えていないが『麺麭の略取』の秘密印刷が出来たという通知があったので、或夜それを受取りに行った。平民社の門のすぐ前の巣鴨監獄の看守宅で、3名(2名は秋水、1人は私)の尾行が泊まり込みで見張っているので、家を出て帰るまで彼らに絶対に感知されないように行動するのは、並大抵の苦労ではなかった。それが数回続いた。
 こういう風にして、麹町三番町のある金持ち(多分先生の友人の小島竜太郎さんであように思う)の妾宅の倉庫に隠してある製本を毎夜少しずつ取りに行ったり、昼間は市内や府下数カ所の郵便局に発送しに行ったりして、常に渾信身是れ眼といったような緊張した細心の警戒と不撓不屈の
努力とを尽くして行動したので、平民社のすぐ眼と鼻のさきに昼夜張り込んでいる三人の尾行巡査や、いつやって来るか分からない同志の面を被ったスパイの封鎖網を潜って、地方同志に予約販売をし、米国同志、及びロンドン図書館等に寄贈して、完全にその目的を達成し得たのは、わたし一人が全身全力をこれに傾倒して、殆ど不眠不休の活動を続けたのに因ることは勿論であるが、戸恒、榎、管野、神川など、在京同志が、皆熱心にわたしの活動を直接間接に援助してくれたお陰であった。中島寿馬君は、中央郵便局からロンドンの大英博物館へ送ってくれたりした。しかも現在生きているものは、中島だけである。英文原書は赤い羽二重のような絹表紙で、本は、非常に軽い、綿を引き延ばしたようなやわらかい紙に印刷した、厚さが二寸くらいの菊版の美しい書籍であった。訳者は幸徳伝次郎であったが、奥付けは平民社訳、代表者坂本清馬としてあった。それは、幸徳先生が入獄するようになると第一健康が気遣われるし、また全国の革命運動を指導するのに都合が悪い」という二、三同志の意見があったので「じゃ僕が入獄るようにしよう。そうすれば都合がよかろうし、僕も獄中で勉強ができるし、一挙両得だから、僕が全責任をもって、飽くまでも秘密出版で押し通そう」ということに決定したからであった。処がどういう魔がさしたものか、また誰と話し合ったものか、突然先生が「既に発送して了って目的を達したのだから、届けて見ようじゃないか」といい出した。…わたしは不満あったが、已むを得ず一月下旬内務省に本を添えて届出をした。…わたしが届出をすると、翌日警部と刑事がやって来て、一応わたしを訊問をして後「原本と訳本とを頂いてゆきます」というから、「訳本はもう二十冊位しか残っていないのです。(註、わざと残してあった)不審に思えば御自由に捜して下さい。原本の英文書は、丸善でも教文館でも売っている本ですから、これを没収して来い、という御命令ではないのでしょう」というと、押し入れの中から訳本を二十冊ばかり持って帰った。或いは十冊から十四、五冊であったかも知れない。間もなく、わたしは出版法違反で起訴された。公判廷で判事が「幸徳伝次郎が訳したのではないか」と訊問するから、わたしは「この本の或る章は幸徳先生が訳したのもあり、また大杉君が訳したのもありますが、この本そのものはわたくしが訳したものであります。だから、わさくしが発行責任者となっています。平民社訳としてあるのは、名もないわたくしの訳としては売れないおそれがあるからであります。尤も両人の訳文を参考にはしてありますが」と答弁した。結局、罰金三十円の判決を受けたが、それはわたしが管野須賀子のことで先生と絶好して平民社を去った後のことで、罰金は管野を通して先生から受け取って完納した。これが『麺麭の略取』の秘密出版の真実の経緯である。 ……

註 印刷日は、明治42年1月25日であり、発行日は1月30日であったから、届出は多分1月28日頃ではなかったかと思う。何故かといえば、1月29日付けで「出版法第19条による発売頒布禁止、刻版並印本差押処分」の公文書を持て、警部が刑事を連れて巣鴨平民社へ差押えにやって来たことが、最近分かったからである。 
 1960年2月26日夜、於東京記す『文庫』1960年4月号