1919年10月26日。大杉栄、東京労働運動同盟会例会出席「ギルドソシアルズムの批評」と題した演説

一九一七年にはロシア革命、翌年一八年には米騒動と内外で大きな社会変動が起きます。この時代はラジオ放送もありませんでしたから報道としては一般の日刊紙、社会主義者、労働者の間には限られた運動紙誌、研究会、演説会により伝えられてゆきます。また日本は第一次世界大戦により好景気になり労働争議も頻発、労働運動も盛んになります。
このような状況を背景に労働運動の活動家が集る研究会、北風会(初期は渡辺政太郎、病没後は近藤憲二を中心とした)が始動し、じきに大杉栄のグループの研究会と合併、東京労働運動同盟会と称し『労働運動』紙の創刊に至ります。刊行準備段階では大逆事件以前から大杉の盟友であった堺利彦や山川均、荒畑寒村に同人を呼びかけましたが直接の参加は得られませんでした。しかし当初は論文の寄稿や転載がありました。
呼びかけられた堺利彦は売文社、荒畑寒村と山川均は「労働組合研究会」を拠点に活動を進めていました。近藤憲二の回想記(『私の見た日本アナキズム運動史』)によると荒畑、山川はこの時期はまだサンジカリズムという立場であり二人を中心とした研究会には東京労働運動同盟会・北風会の会員も多数参加していたと記述されています。

≪参考≫1919年9月15日。午後7時より小石川区指ヶ谷町92番地乙号若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に於いて本名<大杉栄>は北風会会名変更竝に組織に関し左の討議を為せり原案として【本会を東京労働同盟会と称す】【自主的労働運動を促進するを以て目的とす】【又労働運動の研究を為し実際運動に従事する事】。常任幹事の件<入力者による略>原案に付き説明を為し之れを要請したる名称に於て異論あり■東京労働運動同盟会と修正し原案通り可決決定せり