わが黒色青年連盟は1月31日午後6時半より芝協調会館で第一回の演説会を開催した。1926年。

 東京地方に散在する無政府主義団体の最初の会合であった。会する者七百有余。二流の黒旗の下には6つのスローガンが挙げられていた。40数名の弁士はこのスローガンによって熱弁を振ったその殆ど大部分はお極りの弁士 「中止」。自然児の深沼君は、紙製のバクダンを壇上にたたきつけて検束、同横山君は私服警官と論争して検束斯くして横暴なる官権の圧迫の下に、遂に午後9時散会するに 余儀なかった。然しながら一つの行動は数万言の議論にも優る。会衆は街頭へ出た。黒色青年連盟と染めなされた黒旗は高く頭上に翻って銀座へ!!銀座へ!!
 黒旗は疾風の如くに銀座街頭に駆走する。礫は飛ぶ。旗先は硝子窓にぶち当る。この行動を阻止しようとした尾張町交番の岸巡査は全治二週間を要する殴打傷を頭部に受け遂に窓硝子の破壊されたもの二〇有余軒」
「築地署は直ちに非常線を張って三二名を検束し愛宕署に六名、翌早朝各団体は寝込みを襲われて家宅捜索を受け、所轄署に取調べを受けた。かくして我等はかかる微細の事件なるに不拘、遂に同志二二名を市ヶ谷刑務所に送らねばならなかった。」
「越えて翌月一三日、山崎真道、松浦良一、匹田治作、熊谷順二、北浦馨、荒木秀夫、秋山龍四郎の七君を残して検事令状〈拘留の必要を認めず〉との理由によって出獄した。 折柄開会中の帝国議会に一大波乱を起こしたことはあまりに明白だ」(『黒色青年』一号二六年四月)
  実際に直後の帝国議会では与野党の政治家が治安維持をめぐり大論議を行い首相自ら答弁、『東京朝日新聞』が夕刊(二月三日の夕刊で報じている。
  [見出し] 臨時閣議を開き政府の対策成る 昨夜内務省の協議に引続き答弁方針を決定す 銀座の暴行事件は果して何人の責任ぞ、無警察に等しき帝都の取締を、政本相提携して内相に迫る、衆議院本会議、銀座街頭の暴行と革命歌高唱
「一体帝国の警察は何をしているのか常にかくの如き事件が事前に防がれず事後になって漸く騒ぐが如きは何事であるか」
「黒色青年連盟は今日の思想団体中最も危険なる性質を有するものなることは当局も知っているはずである」「協調会館にて禁止をされた時なり殺気立っていたとのことである彼等が銀座に現われるや暴行は勝手次第で且革命歌をも歌ったとのことである」
「この危険なる思想の表現として帝都の中央部に暴行事件が起ったことは一つの革命とも見られるではないか」
「この事実に対して警視庁の執りたる取締は不完全ではなかったか」
若槻首相の答弁
「協調会館の演説会では著しき事故もなく解散をしたがその一部の者のうち約三十名は銀座街に出たので電話で警戒を通報した山崎某が博品館のガラスを破壊したのが動機となり各所のガラスを破壊するに至ったがその時は遂に検束することを得なかった」
「事件の内容に就いては手落もあったが処分はせぬ無政府主義者は近来衰微して来たので之が発達を目論見て会合を催したものである」
「銀座方面に行ったものは別に危隨の傾向もなかったので遺憾な事件を起するに至った」
「治安に関しては警察官に対し一層注意を払っている」「今回の事件に付て全然警察も手落ちの無かったとは思わぬが何分にも事柄が事柄丈に十分注意は払っている然し警察官を懲戒処分をするまでには考えていない責任は十分感じている」
  内閣の緊急会議と与党の対策会議も開かれている。
無政府主義取締近く声明せん 」「本日閣議で決定」「黙視できぬ銀座街事件」 
『黒色青年』誌には事後弾圧された同志たちの公判経過が報告されている。
  第四号一九二六年七月
市ヶ谷刑務所にある銀座事件の諸君は接見禁止が解けた。同志諸君の面会通信を希望している。熊谷順二君、山崎真道……、荒木秀雄君、北浦君、匹田治作君、松浦良一君、秋山龍四郎君
  第六号一九二六年一二月
銀座事件の秋山、北浦、山崎、松浦、匹田、熊谷の七君實付出獄。みな元気。
  第九号一九二七年六月
銀座騒擾事件の判決は左記の通り決定  
懲役八ヶ月、熊谷順二、匹田治作、松浦良一、秋山龍四郎 懲役八ヶ月以上一年未満少年法に依る山崎真道、罰金三〇円、北浦馨、荒木秀雄
  第一一号 一九二七年八月
控訴した銀座事件の公判は来る九月八日午前九時三号法廷。