和田久太郎の法廷陳述『労働運動』第十一号大正十四年七月一日発行

「公判廷に於ける和田久太郎君」「和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた」
1925年6月21日
 和田君は第二回公判廷にて左のやうに言つた。
「僕のこの度の行為は、僕が常に抱いてゐる主義思想とは関係なく、一昨年、震災の混乱を利用して『社会主義者鮮人の放火暴動』などといふ嘘八百の流言を放ち、火事場泥棒的に多くの社会主義者や鮮支那人が虐殺されたことに対する復讐である。
 その当時、流言蜚語を放つた者を厳罰する法令が出て、その流言蜚語を取り次いだ者の二、三が罰せられた事は白日公然の事実であるから、即ちその流言蜚語を放つた犯人が時の政府でなく、警視庁でなかつた事も、確かに白日公然の事実である。
 然しながら、それと同時にあの当時、各所に流言を放つて歩いた者の多くが、騎馬にまたがつて軍服を附けてゐたもの、自動車に乗つて巡査の制服を着けてゐたもの等であつた事も、震災地にゐた総ての人々の眼に映つたところの事実である。
 兎に角、あの当時『鮮人を殺せ、社会主義者を生かして置くな』といふ流言蜚語が盛んに行はれた。所々に於て鮮人は群集に切り殺され、兵隊によつて銃殺された。平澤計七君等十一名は、ただ社会主義者だといふ理由だけで、真裸体にして突き殺され、首をちよん切られた。
 何故僕が首を切り落とされた事まで知つてゐるかといふと、その虐殺された平澤君の首と胴体の離れた姿が、偶然にも、当時或る人の撮つた写真の中から発見されたのである。
 然して、十六日には、吾が大杉夫妻及び六歳の甥の宗坊が憲兵本部に連れ行かれ、諸君の知らるゝ通りの残虐極まる殺され方をしたのである。
 又、ある社会主義者の宅は銃剣を着けた軍隊に襲はれ、ある者の家は武装した青年団に襲はれた。巣鴨警察に検束された同志の中の四名は、道場や広庭に引出されて、柔道の手で投げ飛ばされ、竹刀、厚板等で乱打され、幾度か気絶さゝれた。
 吾が労働運動社は、九月一日から七日迄の間、ただ一度二升の玄米を分配されたのみで、それ以外、一切の食料品の分配を町内青年団から拒まれた。そして七日に、一斉に駒込署に検束され、僕の如きは四十度近い熱で病臥してゐるのを布団のまゝ留置場にかつぎ込まれた。
 かくの如き暴虐! これに対する悲憤! それが凝つて以つて今回の復讐となつたのである。
 がその数多い暴虐の中に於いても、特に、吾が大杉夫妻及び気の毒で堪らないいたいけな宗坊の虐殺に対する悲憤が、尤も強く僕の心を動かした事は勿論である。
あゝ、多くの虐殺された鮮人は、平澤計七君等に対する虐殺は、皆『非常時の出来事』として、
泣き寝入りになつて了つた。しかし、大杉夫妻及び宗一君の虐殺は、終に古井戸の底に隠し切れなかつた。
 ために甘粕等一、二の者が、ほんの申訳け的に罪に服した。僕は敢えて甘粕等の裁判を申訳け的といふ。何故ならば、三人わ惨殺した甘粕は、実に十年といふすばらしい重い刑を受けたのだが、その刑期の十分の一を勤めた本年の五月初旬、既に千葉監獄を放免されたといふ一事によつても、それが明らかではないか。
 僕は国家の定めた法律を侵した。しかも、それは法を知らずして侵したのではなく、知つて侵し──侵さざるを得なかつたが故に敢えて之れを侵したのである。故に法律に対してはただその前に此の身体を投げ出しすのみで、何事も云はない。
 が、しかし、社会生活を営みつつある全社会の人々に対して僕は声を大にして一言訴へたい。
 諸君は、その社会的正義を求める心にこの事実を問ふて、猶且つ……(以下五十四字削除)……と。
 即ち僕のこの心情こそ、この度の暗殺を企て………(以下十八字削除)………、僕の信念を生んだのである。
 警視庁に於ても、検事の取調べに於ても、また予審判事の取調べの時にも、『甘粕のやつた事を福田大将へ復讐するのは少し見当違ひぢやないか』といふ言葉を度々承つた。

 二分の一段飛ばし

 今、仮に一歩を譲つて、判検事の僕に言はれた如く、また福田自身の言明の如く甘粕の行為は決して福田大将の与り知らなかつた所だとした所で、しかし、あの虐殺が決して甘粕等自身の自発的行動でないといふ事に就いては、多くの眼明きの人々が明白に認めてゐることだらうと思ふ。
 それ故にこそ福田自身ですら、予審調書に
『しかし、私を命令者と和田等が思ふのも亦無理のない点もある。何うも甘粕の裁判の時の態度が曖昧だつたので、私ですら他に殺させた者があるのではないかと疑つてゐる。しかし、軍法会議で裁判も終つた事だから何んとも仕方がない』と述べなければならなかつたのである。

 然して、この誰も疑ふ当然の疑ひを僕が疑つて、その背後の全責任者として僕は福田大将を睨んだのである。
 僕は、福田を甘粕事件の黒幕だと推定するに役立つ三つの材料を揚げる。
 第一。彼は当時の戒厳司令官である。
 第二。九月二日、所々に貼り出された『鮮人社会主義者等が放火し暴動しつつあれば、人々はよく団結して彼等に備へよ』云々の掲示板には、な戒厳司令官福田雅太郎と署名してあつた。
 第三。当時、戒厳司令官より各青年団在郷軍人団に発したといふ謄写版刷りのビラの中に、『社会主義者、鮮人を徹底的に取締れ』と記されてあつた。
 即ち僕は、この三つの事実に思ひを潜めて、そして、前述の誰もが抱く疑ひである甘粕の背後の、最も明白な第一の責任者として福田大将を認めたのである。
 私は思ふ。福田雅太郎の直参旗本であつた憲兵隊は青年団在郷軍人団等の及びもつかない忠実さを以つて、その司令官の内訓にのつとつて、大杉夫妻を『徹底的に取締つた』ものであり、殊に余りに徹底しすぎて、僅かに六才の宗坊をまで『取締つて』了つたのである、と。
 しかし、これでも猶、福田が『その推定は間違つてゐる。私は甘粕事件には少しも関係がない』といふならば、僕は福田雅太郎にお願ひする。
 福田も、甘粕の黒幕があるやうに疑つてゐるのだから、幸い甘粕がのこのこ酒蛙々々と娑婆へ出て来た今日である、その疑ひを何か明白にして貰ひたい。そしてその黒幕を発いて、僕の『間違ひ、思い違ひ』をして翻然と改めさして慾しいものである。
 が、その背後の黒幕は、余りに大きく数も多さうなので、よもや福田もそれは出来まい。出来なければ男らしく責を負つたらどうだ。『何うも軍法会議が済んで了つたから仕方がない』などと、暗に自分達の軍法会議をけなしてまでその責任を避けやうといふのは、余りに軍人らしくない態度ぢやないか。部下に絶対服従を強ゆる権力を握つてゐるものならば、仮りにその部分の仕出かした誤ちとしても、甘んじてその責任を負つてこそ軍人じやないか。」