1924年7月。古田大次郎「回想記」より。同志による刊行の際『死刑囚の思い出』と題された。

「…去年の十月、僕達と訣れた倉地は、その後広島の水力電気工場に働いてゐた。…
倉地は、そこで廃物のダイナマイト五六本と、雷管二三本を手に入れた。そして、朝鮮から帰つた中濱に呼ばれて山を出る時、それらもお土産に持つて来てゐた。
 朝鮮の方から爆弾を購入する計画を放棄した後は、僕達の手で爆弾を作る事にした。
 その手始めに、ダイナマイトの爆発力を試さうといふことになつた。導火線が要るが無かつたので、倉地は■■■に         を塗つて   の代用品を作つた。
 二人は爆発試験の場所を探しに、横浜の郊外から、程ヶ谷、戸塚、大船の山中を歩き廻つた。
「あのダイナマイト一本でも可成な力はあるよ。千貫位の岩は滅茶々々にして終ふからね。そして、その破片は、百尺位離れた所へ飛んで行つて、重ねたトタン板二枚を貫くから恐しいよ」倉地は元気な調子で話した。 
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 岩山か大きな石でも転つてゐたら、それを試験台に供する積りだつたが、生憎くこゝら辺の山は、土山計りで、さうしたものは見当らなかつた。
 適当な試験台がなかつた上、導火線の代用に供する【三文字・空白】も一向うまく火を導くやうに出来なかつたので、爆発力の試験は中止して終つた。それで倉地は、ダイナマイトと雷管、それに導火線を手に入れるべく、五月下旬、再び廣島の工事場へ向つた。

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 僕はこの秋迄には、全てを片付ける積りでゐた。村木君達の福田暗殺も、河合達を逮捕した奴等に対する復讐も、何もかも、この秋迄には片付ける積りだつた。そして僕自身も、この秋迄には片付けて終ふつもりだつた。本当に何もかも、片付けて終ふつもりだつた。しかし、さうは考へてもまだ最後のドタン場に臨まない僕には、死の恐怖を思ふことは出来なかつた。又、努めて、それを考へやうとしなかつた。只、時々断末魔の苦痛を想像せずに居られなかつた。避けやうとしても、僕の想像は、そちらに走つた。その時、僕は身慄ひする程の、恐怖を感ずるのが恒だつた。又時に、死後と云ふことも考へた。「永久」といふことも考へた。しかし、それらについては僕には一切解答を得られなかつた。

≪この後、Sちゃんの近況、恋敵、厭世観、…記述≫