1909年11月3日。宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆。

「…天皇の存在に対する歴史認識から、東大を追われた久米邦武の『日本古代史』も大きな役割を果たしている。
  宮下は幸徳、森近らの平民社との交流、内山愚堂の『無政府共産』から天皇観の影響を受け学び、天皇の存在が労働者、小作人、戦争に駆り出される人々を苦しめている元凶だと認識したのである。
  宮下が使用していた1908年の市販の日記帳には皇室欄が付録として付いていた。そこに宮下の書き込みが残されている。」

〈皇    室〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ皆殺ス
〈皇    族〉 寄生虫ノ集合体 革命ノ時ハ殺ス可者
〈御歴 代表〉 寄生虫ノ経歴表
〈陸軍管区表〉 社会ノ害物
〈貨幣明細表〉 新社会ニハ不必要
〈印 紙 税〉 新社会ニハ不必要

  宮下の決意が率直に表現されている。陸軍管区表というのは師団の所在地のことである。反軍の立場、革命時の障害になるということで記したのであろう。
  大府駅での『無政府共産』の配布から数ヶ月を経て1909年の2月には、天皇暗殺の決意が出始めている。自分は命を賭けて革命のための礎になろうと決意したのである。残されている資料を検討する限り、煙山専太郎の『近世無政府主義』からの影響であろうか。
煙山専太郎は後に早大の教授になる。長男が1971年にエッセイで
「父の立場はいうまでなくこれ(革命)を謳歌宣伝するものではなく『警世の書』であったのです。………ただ父は、この書  を上辞するに当たり、警保局?の役人から取調べをうけ、無事にパスして公刊できるようになったと申しておりました。…………」
  と述べている。
  煙山専太郎の思想的な立場はわからないが、「警世の書」というのは当局への対応上主張していたのかもしれない。もしくは出版時の予想に反して、無政府主義者に影響を与えたり、宮下太吉の蔵書にもあったということで、「保身」的言辞にならざるを得なかったのであろう。
  出版当初は余り売れず、幸徳秋水が米国から帰国後、無政府主義の立場を明確にしてから購入され始めたようである。
  その内容はナロードニキの闘争、無政府主義の理論、ヨーロッパの無政府主義運動史となっている。
  宮下はロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺場面を天皇ムツヒトへのそれと重ねたのであろうか。

  第4回予審調書

「まず爆裂弾を作り、第一に之を天子の馬車に投げつけて、天子も我々と同じく血の出る人間であるということを示したい。自分は、その決心を為して、是よりその計画を行なうべき旨を話しました」


1909年2月13日に巣鴨平民社を訪ね幸徳に語っている。
  東京に向かう直前には、岡崎の書店で、古本の『国民百科辞典』を見つけ購入。薬品の性質や、火薬の製法を調べ始めている。
  押収された『日記』のメモによると、
  4月13日 「平民社」にクロポトキン著、幸徳秋水訳『麺麭の略取』を注文。
  4月18日 『法律と強権』と共に受け取る。
  来たるべき社会のイメージを掴もうとしているのか。
  5月の中頃には「ソロリン」という火薬の合剤を調合する方法を把握している。
  5月25日には平民社から『自由思想』の一号を受け取り、同日幸徳あてに手紙を書いている。幸徳は同志からの通信はそのつど処分しているので現物は残されていないが、宮下がその主旨を供述している。

「研究によって爆裂弾の調合が判った………主義のために斃れる………」

  5月27日、28日には『自由思想』一号を再び受け取る。
  同、5月28日には菅野スガより「会って話したい」との通信が届く。
  6月6日には千駄ヶ谷に移っていた平民社を訪ねる。

  宮下の予審での第21回調書が残されている。

「私は、幸徳、菅野両人に対し、爆薬の調合も判ったから、いよいよ爆裂弾を造って、天子を斃すと申したるに、幸徳も管野も之に同意しました。もっとも、幸徳は自分も一緒に、加わってやると名言しませんでしたが。
  私に向かって、
    君は田舎に住まっている人であるから、別に面倒な事もないが、自分らは東京に住し、人に顔をよく知られているから、いよいよ実行する時機が来たら、三ヶ月くらいは、所々、田舎に引っ込み、一時姿を隠しておかねばならぬ。
  また、
    その如き、事をやるについては、その理由を書き残しておかないと、世間から狂者の所為の様に思わる。と言いました。
  それで、私は無論、同人らは、私と事を共にする考えがあったもの、と思いました。」
 

幸徳は、自分自身が参加することは曖昧にしていたが、菅野スガは積極に反応していた。
  菅野スガ・第二回聴取書

「私は元来、無政府共産主義者の中でも、過激なる思想を懷いておりましたが、………とうてい温和なる手段で、主義を伝道するなとは手ぬるい事であると考え、寧ろこの際、暴動もしくは革命を起こし、暗殺等も盛んにやって、人心を覚醒せなければ駄目であるから、出獄後は、この目的のために活動する考えを起こしたのであります」

「6月、宮下と前相談した中に、私からこの計画をやる二人、新村忠雄・古河力作の両人は、予って熱心なる主義者で、最もしっかりして居るから、この両人も、入れる様に相談致しました」

  この6月の平民社での話し合い以降、宮下の活動は爆裂弾の材料集めと製造に集中して行く。
  7月5日 甲府の薬屋で、塩酸カリ九百 入手。
  7月10日 鶏冠石、入手依頼の手紙を亀崎の知人に出す。
  7月19日 塩酸カリ、入手依頼の手紙を新宮の新村に出す。
  7月31日 鶏冠石千二百 、明科の宮下の下に届く。
  8月11日 塩酸カリ四百五十 、新宮の新村から届く。