1923年11月27日。
新山初代、病気で出獄、芝、協調会病院で死去
1902?年?-1923年11月27日
東京府立第一高等女学校2年で父親が死去。肺病になり、新潟で半年間静養、生死の問題に悩んで仏教を研究。
1920年3月、女学校を優等で卒業後、正則英語学校夜学に通学、金子文子と知り合い、後に不逞社に参加。
金子は「初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得た、ただ一人の女性であったろう」と語っている。
新山は金子に『労働者セイリョフ』を貸し、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲルや、ステイルナー、アルツィバーゼフ、
ニーチェというニヒリズム傾向の思想も伝える。22年11月肺病のため、母、妹二人と別生活を余儀なくさ れ、
本郷区駒込蓬莱町18<当時の労運社と至近距離、現文京区向丘2丁目>に一戸を構え独立、雑貨菓子商を始める。
学校を出てから婦人問題、政治問題、個人主義の思想を持つようになる。気分としては「ダダイズム」、「また対象物
なき叛逆の気分は学校に居る時分から只今まで自分につき纏っております」と逮捕後の予審で述べる。金子は3ヵ月
くらいで学校を退学、世田谷池尻で朴烈と同棲をしていた。その金子から来信があり、二、三度訪ねるが交流は一度
途絶える。23年5月再開後、朴烈、金子文子らの不逞社に加入、例会や講演会への参加と活動的になる。 7月末に
は大杉栄を訪ね、8月6日の黒友会<会場は新山宅>での講演を依頼する。当日大杉は現れず、仲間たちと会の運
営の話しになる。仲間の朝鮮からの留学生、金重漢と恋愛関係になる。朴から金への爆弾入手依頼での行き違いか
ら朴と金の仲は険悪になり、8月中旬、新山も金子、朴烈と決別、新山は雑誌『自擅』を金と共に発行。8月18日の自
由人社での大杉のフランスでの活動報告を聴きに行き、20日、根津での大杉呼びかけによるアナキストの同盟を目
論んだ集まりにも参加。[いずれも朴、金子は不参加]。関東大震災直後、9月3日、朴烈、金子への保護検束を 名目
とした連行を始めとし、不逞社の仲間への取り調べ、逮捕が続く。新山も9月24日、警視庁特高刑事に連行され、関
連して治安警察法違反の容疑で逮捕、取り調べで病気が悪化、危篤状態で釈放。11月27日未明、芝の協調会病院
で死去、22歳であった。28日獄死という報道もある。12月2日、母親、妹たちと女学校の同級生1人だけの寂しい葬儀
が行われたと新聞は伝える。不逞社の他の仲間は1年程の拘束の後、最終的には免訴。金重漢だけは爆発物取締罰
則で3年程の実刑判決。朴烈、金子は刑法73条<大逆罪>で予審<取り調べ>が続き起訴され、死刑判決から無期
懲役に「恩赦」減刑。金子は26年7月自死。 新山は大震災前の8月、朝鮮人の同志金との恋愛、雑誌発行、大杉の話
を積極的に聞くという状況であった。父親を亡くし、自らは肺病でありながら働く女性、タイピストとして自立し、なおかつ家
族の生活援助という環境でのアナキズム活動への参加であった。金との恋愛もありニヒリズムの影響を離れアナキズム
を広く理解しようとしていたのではないか。年齢若く、逮捕2ヶ月で獄死という活動時期も短い故、多くの仲間には知られな
かったが、女性として当時の社会の矛盾を一身に引き受けつつ、より根源的な社会変革に関わる可能性を秘めて いたアナ
キストであった。
[文献]小松隆二編・解説「朴烈・文子事件主要調書」『続・現代史史料3アナーキズム』1988年刊、みすず書房。『朴烈・金子文子裁判記録』<『黒涛』『太い鮮人』『現社会』復刻版収録>1991年刊、黒色戦線社。金子ふみ子著、栗原一男編『何が私をかうさせたか』1931年刊、春秋社。 [資料]マイクロフィルム版『東京日日新聞』1925年11月、『報知新聞』1923年12月
東京日日新聞』夕刊1925年11月25日。
震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件 来月八九両日特別裁判開廷(本日解禁) 罪の裏に女!
躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ
惨苦の中に真ッ赤な恋
検束で名物の朴夫妻
同志の新山初代は獄死
「……団体の組織を初めたのは大正十二年四月ごろで同志ふみ子を初め前記
洪、崔、陸、徐、鄭、小川等と自宅に協議し不逞社なる秘密結社を作った六月ご
ろには獄死した美人タイピスト新山初代を初め野口、栗原等九名の日鮮人が加っ
た。同団体は表面思想研究団の如く装っていた、朴はその首領で毎月例会を自
宅で開いていたが新山初代の獄死したのは一昨年十一月廿七日であった。」
獄死した新山初代 肺患に冒され ヤケの生活
「獄死した新山初代は本郷区菊坂町二五素人下宿新山せん(四八)の長女で
実父源次郎は大正五年死亡したが母は初代を頭に三人の女の子を抱えて苦
しい中から兎も角も大正九年浅草七軒町府立第一高等女学校を卒業させ日本
橋河岸三井三號館四階木村商事事務所にタイピストとして雇われたが都合よく
行かず母と別れて本郷駒込蓬莱町一六に一軒を借り二階は間貸しにして荒物
雑貨商を営んでいたが第一高女卒業前から肺結核におかされて余命幾何もな
いことをさとったのと中村某に初恋を捧げて容れられぬ失望から棄鉢の気味と
なり生活の窮迫から金子ふみ朴烈と交り金重漢を蓬莱町の家に同居させ関係
を結んだものである。」
『報知新聞』
1923年12月2日夕刊
○○事件に絡む女性 新山初代獄死す きょう谷中で淋しい葬式
残った母親の痛しい繰言 某重大事件に連座して震災以来囚われの身となっていた
新山初代(二二)についてはさきに報道したが獄中哀れにも病疾の肺結核が昂じて
去る二十八日未明の裁きの日をまたず芝区協調会病院で死去した。遺体はダビに
ふし今二日午後一時谷中寶蔵院に於て形ばかりの葬儀が営まれた、本郷区駒込
ホウライ町一八の実家では実母たけ(八)が杖とも柱とも頼んでいた初代の遺骨を
抱えて幼き二人の妹と共に悲嘆に暮れながら語る『涙一滴こぼしたことのない気丈
な初代も、さすがに臨終の時は涙を流して申訳ありません申訳ありませんといいつ
づけ、アトは正気もなくうわ言をいって息が絶えました、お友達の選択を誤った為に
こんな事になったかと思うとあながち自分の子供ばかりを責められませんが、今後
私共母子三人はどうして生きてゆけるでしょう』と正体もなく泣き崩れ仏前に母子三
人の外にただ一人初代と府立第一高女の同級生だったという娘が『初代さんの性
格は私には誰よりもよく判っています。真紅な血で白いベットを染めて息絶えた初代
さんの臨終が思われます』と死の枕辺には悲痛な遺書が一通おかれてあった。 獄
死した初代と差入れに行く母親(十月十八日撮影)