アナキズム運動史]韓国映画「アナキストたち」

二〇〇〇年五月はじめ、ソウルの中心街の映画館で韓国の若いアナキストたちと共にみた。

封切りは四月二九日。韓国語はわからないままアクション映画としての側面を楽しんだ。

映画館は満員。日帝の軍人が攻撃されるたびに観客席はどよめいた。

その数日前、一九二〇年代の著名なアナキスト友堂(イ・フェヨン)記念館にある国民文化研究所を訪ねたおり、この映画「アナキストたち」が話題となった。

新聞でも大きく話題になり、国民文化研究所のイ・ムンチャンさんたちも監修を頼まれたということであった。

しかし義烈団をそのままアナキストたちと重ねたタイトルには批判的であった。

七〇代、四〇代、一〇代のソウルのアナキストたち皆同意見であった。

二〇〇二年二月、韓国語版のビデオを送ってもらい再び見た。

二〇〇五年春、渋谷を皮切りとした韓流映画祭での限定的な劇場公開を契機としてDVDが発売された。

日本公開でのタイトルは「アナーキスト」。

(原題ハングルは複数形とのこと、また英文でも「ANARCHISTS」と複数形でハングルタイトルの下に付されている)。

監督はユ・ヨンシク、脚本はパク・チャヌク、「JSA」「オールドボーイ」も手がける。

真っ先に注文、日本語字幕、あるいは吹替えでようやく見ることができるようになった。五年越しで史実に基づいた部分も把握できた。

物語はキム・ウォンボンが一九一九年、当時の「満州」で組織した抗日武装組織「義烈団」の活動を描く。しかし娯楽アクション映画でもあり、主人公たちの恋愛も描かれ、巨額の活動資金の行方やアヘン吸引という波乱要素が組み込まれる。

映画で活躍するのはモスクワ大留学経験の虚無主義者セルゲイ(チャン・ドンゴン)、

朝鮮王家の末裔、ロマンチックなヒューマニスト

詩人でトルストイを崇拝するイ・グン(チョン・ジュンホ)、

マルクスレーニンから理念の洗礼を受けた冷静な革命家ハン・ミョンゴン(キム・サンジュン)、

小作人出身の過激な行動主義者トルソク(イ・ボムス)、

少年、サング(キム・イングォン)。

いずれも実在はしないキャラクター設定である。

セルゲイの恋人、カネ子(イェ・ジウォン)は母親が朝鮮人という設定で義烈団へ同情し、アナキズムの本も読む。

しかし時代背景はリアルに描かれ、実在した人物たち、独立運動の著名人、イ・ドンヒ(李東輝)、シン・チェホ、キム・ウォンボン(金元鳳)、キム・グ(金九)の名が出される。 

初の韓中合弁で作られ、六〇万坪の敷地に建設された上海スタジオと近隣都市でのロケが生かされ、一九二〇年代の上海を再現したという。中国人エキストラも動員、三ヶ月の製作期間。

映像は一九四八年、冒頭、ラジオ放送「政府樹立一周年の今日イ・スンマン大統領閣下は……」

「金九まで暗殺して政府を名乗るとは」……「私は死ぬべき時に死ぬことができず……」とサングの回想。

セピア色の二〇年代上海から人々が動き出す。一九二四年の上海。旭日旗と絞首ロープが象徴的にアップされる。両親を日帝に殺されたサングは日本人住区に放火するという復讐行為により逮捕、公開処刑されようとしていた。

日帝軍人のカトウ「我等大日本帝国に抵抗することがどれほど無意味か理解し…」。

街の中、処刑台の周辺に爆弾が投げられ日帝の官憲が撃たれる。

サングは義烈団のメンバーとなる。

「義烈団はなぜ黒を着るのか?」

社会主義(共産主義という表現を避けているのか)の色が赤ならアナキズムは黒」

「白衣の民族朝鮮の没落を反省するため」というアナキストが黒というイメージを語らせる。

セルゲイも「俺は黒が好きだから」と発言。皆は記念写真を撮りに行く。

サングは写真館の少女リンリンに惹かれる。

サングはトルソクから「義烈団の革命宣言を言ってみろ」と問われる。

上海の街を揃って歩くシーンにかぶらせて革命宣言が激しい口調で発せられる。

「民衆は革命の大本営」「暴力は革命の唯一の武器だ」

「我々は民衆に分け入り絶えざる暴力暗殺で強盗日本の統治を打倒せん」

「我等は不合理な一切の制度を改造し人類が人類を圧迫するを為し得ず社会が社会を収奪するを為し得ない理想の朝鮮を建設する」 

朴烈の大審院公判調書に添付されている翻訳された「宣言」と比較する。訳文の差があるだけで内容は同一である。

「朝鮮革命宣言」はシン・チェホの起草した文である。

「宣言の要旨は吾革命の大本営なり。暴力は我革命唯一の武器なり。吾等は民衆の中に於て民衆と携手して不絶暴力暗殺、破壊暴力を以て強盗日本の統治を打倒し、吾等生活に不合理なる一切の制度を剥削すべからざる理想的朝鮮を建設するに在り。」

映画では引用されない他の部分を紹介する。民衆の自立した意識による革命をめざすということである。

「今日の革命を以つて論ずれば、民衆が民衆自己の為に為す革命なるを以つて民衆革命又は直接革命なりと称す。」

「……吾等の革命の第一歩は民衆覚悟の要求なり。然らば民衆が如何にして覚悟をすべきや。民衆は神人聖人又は英雄豪傑が出て民衆を覚悟せしむべき指導に依て覚悟するものにあらず。唯民衆が民衆の為に一切の不平、不自然、不合理なる民衆向上の障碍を打破するを以て民衆を覚悟せしむる唯一の方法とす。」

「換言すれば、即ち先覚の民衆が民衆全体の為に革命的先駆者たるを民衆覚悟の第一路とす。」

「……暴力、暗殺、破壊、暴動の目的物を大略挙ぐれば、一、朝鮮総督及各官公吏 二、日本天皇及各官公吏 三、探偵奴、売国賊 四、敵の一切の施設物」

セルゲイは不明な死を遂げる。葬儀の場面。「日本人は関東大震災で六千人を超す同胞を無残に殺しました」と語られる。

アジトでは方針をめぐって論議が起きる。トルソクが「俺に朝鮮総督天皇をやらせてください 俺が息の根を止めてやる」と幹部に迫る。トルソクは「革命宣言」を履行しようとの発言であった。

港のシーン。幹部は「義烈団は左翼の拠点である広州に活動を移す」

「我々は今後組織化された大規模な蜂起を目標にする」

「諸君も社会主義(共産主義と読み替えるべき)革命家として生まれ変わってほしい」。

それに対して「我々はアナキストです社会主義(共産主義)は独裁だ」

「無政府共産の理想社会実現」。

幹部は「しかし個人テロにはもう望みがないことを知るべきだ」

「例え天皇を殺しても息子に代わる」。

幹部は(君等は)「自由の身だ」(しかし)

「義烈団を名乗ることは許さん」と発言。

黄昏時、イ・グンが上海港の沖合いを見つめながらサングに語る。

アナーキーの語源を知っているか」

ギリシャ語でアナルキアあるいはアナルコス」

「船長をなくした船乗りたち」。 

日本の軍人、高級官僚が乗船する船を攻撃する計画がたてられる。船内では日の丸を背景に日帝軍人が撃たれる。しかし反撃され、ハン・ミョンゴン、イ・グン二人の義烈団員は殺される。 

再びサングの回想。出獄してくると祖国は解放されていた。

「キム団長は共産主義者として拷問される。」

「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」。エンディング。

現実の「義烈団」はどうであったか。

希少な文献の翻訳、『金若山と義烈団』(朴泰遠著、四七年ソウル刊、金容権訳、皓星社、八〇年八月)により上海での活動、一九二四年の動きを探ってみる。

一九一九年にキム・ウォンボンが二一歳で義烈団を創設したとき同志は総勢一三名。

二五年まで数百の事件、数千人が関わっていたという。

爆弾製造の熟練者ハンガリー人マザールの存在も記述されているが、映画でも冒頭、アジトで紹介されている。「彼はマジャール。武器を調達してくれる」。

同書で上海の活動が記されているのは上海黄浦灘事件、一九二二年三月の陸軍大将田中義一暗殺未遂事件だけである。

(梶村は『義烈団と金元鳳』一九八〇年、著作集収載、において二三年九月の「上海爆弾押収事件・五〇個」を記している)。

田中が上海に立寄るのを知ったキム・ウォンボンは上海に滞留しているすべての同志を一堂に集めた。そして三名を選び、拳銃と爆弾を用意する。

船から降りた直後に狙撃するが失敗してしまう。

二四年の大きな行動は一月五日の東京における二重橋爆弾事件、金祉變が二重橋まで至り爆弾三発を投げるも二発は不発、一発は爆発するが威力は小さかった。

無期懲役の判決を受けるが二八年二月、獄中で突然死。

刑務所は脳溢血と発表、四四歳であった。朝鮮総督府の丸山警務局長によると義烈団の中核団員は二、三〇名。(梶村は官憲資料から二四年当時は七〇名程度と記述)。

しかし団員がそれぞれ別の名の団体を組織し二、三百名が活動していたという。スバイ対策もあり幹部団員以外は自分が義烈団員であるかないかもわからないという仕組みになっていた。

二三年三月、二四年一月と多くの同志が検挙、二五年三月には団内のスパイを処刑と記述。

そして二五年、一部の同志の反対はあったがキム・ウォンボンは従来の少人数単位の武装闘争路線を放棄し、組織的な軍事を学ぶことを提起する。本人自ら偽名で黄浦軍官学校に入学、軍隊組織を学ぶ。

その後の義烈団は梶村の論文によると「二八年一一月、朝鮮義烈団中央執行委員会の名で協同戦線論をふまえ『創立九周年を記念しながら』を発表、共産主義者の指導組織との連携を強調し、ボルシェビズムの側により接近」「二九年か三〇年にキム・ウォンボンは朝鮮共産党を除名になった安光泉と朝鮮共産党再建同盟をつくる」としている。

キム・ウォンボンは抗日闘争を貫いた後、引き続き共産主義に同調、朝鮮民主主義共和国建国過程に参与、五七年最高人民会議常任委員会副委員長に選任、五八年引退以降の消息は不明。

路線変更に反対した一人、アナキストの柳子明は二一年に義烈団に加わり、文案の起草や整理にも関与したという。(『人名事典』では立項されているが二一年加盟や路線反対には触れていない)。

韓国内での公開当時の評価を紹介する。

アナキストとは? 船長のいない船のクルーの群れ、という語源のギリシャ語アナキアから出たアナキスト無政府主義者を意味する。彼らの思想の『アナキズム』は民族主義でも共産主義でもない第三の思想であり、権力のない支配されない社会建設を主唱し、テロ活動に力を注いだのが最も大きな特徴だ。」

この認識は義烈団とアナキストたちを同一視している。

アナキスト(無政府主義者)は現実感のない耳慣れない単語中のひとつだ。半世紀を越す冷戦体制が支配している分断国家で、彼らが足を付けられる土地は事実上なかった。」

「新鋭ユ・ヨンシク監督がメガホンを持った映画『アナキスト』は植民地からの解放以後、韓国・北朝鮮の理念対立の構図の中で忘れられつつある一九二〇年代のアナキストの生を扱った点から『歴史の復元』という、意味ある作業をなし遂げた。」

「上海、黒いコートを着て中折帽を押さえて青年らが歩んでくる。顔には虚無と憂いが現れている。眼差しは鋭い、彼らを覆った空気は尋常でない。死を覚悟したように悲壮だ。」「映画 『アナキスト』はアナキストのキャラクターをこのように浪漫的に描いた。革命のためにならば愛も命も捨てるテロリスト。アナキズムの専門家である東国大の教授(哲学)は映画『アナキスト』に対して『アナキストのキャラクターを歪曲しているにもかかわらずアナキズムを下位文化・抵抗文化・反文化の表象に浮上させるのに一助となった』と話す」と続けてエマ・ゴールドマンの本も紹介される。「アナキズムは保守陣営からはもちろん進歩陣営にも疎外されてきた」「『Anarchism and Other Essays』が原題であるこの本が韓国語訳で 『呪われたアナキズム』と題されて刊行。著者であるエマ・ゴールドマン(一八六九〜一九四〇)は二〇世紀の代表的アナキスト。ロシア出生で米国に移住した後、アナキズム運動を展開する。投獄され市民権まで剥奪された女性だ。一九一〇年に刊行したこの本は難解なアナキズムの概念を比較的明瞭に叙述したアナキズム入門書だ。」

「民族陣営と共産主義者、そしてアナキストが共存した。この内のアナキストらは、暴力とテロを通じて日本帝国に真正面から対抗した歴史の中に実存した。彼らは日帝の力がおよばなかった中国の上海のフランス租界を根拠地にして一九二〇年代初めに 三〇〇余件のテロを敢行した。」「映画『アナキスト』はニム・ウェイルズの『アリラン』などを土台に、五名のアナキストを架空に作り出した。」

抗日武装闘争は「テロ」なのであろうか? さらにアナキズムと「テロ」を短絡的に結びつけられてしまう。後に明確なアナキズムの立場にたつシン・チェホが義烈団の綱領といえる「朝鮮革命宣言」を起草したこと、柳子明という優れたアナキストが主要団員として存在していた事実はあるが、義烈団をアナキストアナキズム二重写しにするのは無理がある。キム・ウォンボンは創設者であり象徴として義烈団を統括していた。そのキム・ウォンボンは強固な民族主義から共産主義に同調していった。

当初は、梶村が次に分析しているような組織性であったのだろう。「…アナキズム・ボルシェビズムと接する機会はしばしばあったはずだが、そのいずれかに分化しきってしまうことを敢えて避ける姿勢をとっていたといえよう。…また、よくまちがえられているが、アナキズムとの関係も同様であった。…自覚的なアナキスト団体とは別個であり、義烈団がこれと合体したような形跡はない。」著名なアナキストの参加は他にない。

映画は「義烈団」全体の活動を描いていない。二四年の上海に焦点をあてた。義烈団の動向をこう理解しよう。朝鮮本国での前年までの活動がキム・ウォンボンの義烈団としてはピークであった。失敗と弾圧による主要活動家の逮捕、スパイの存在、義烈団の存続が問われていた。関東大震災における六千人以上の朝鮮人の虐殺に対する天皇日帝への報復行動、二四年一月の金祉變の闘争も実質は失敗であった。二四年の義烈団、キム・ウォンボンは苦悩していた。

映画は「義烈団」の中の一グループを描き、構成する団員の思想を図式的に分けている。

虚無主義者セルゲイ、トルストイを崇拝するイ・グン、共産主義の影響を受けたハン・ミョンゴン、過激な行動主義者トルソク、最年少で思想的には白紙で未来があるサング。

前述した「我々はアナキストです。社会主義(共産主義)は独裁だ」「無政府共産の理想社会を実現させたいのです」をイ・グンに語らせている。

またイ・グンがサングにアナキズムの語源を説明するシーンがある。

これはイ・グンにアナキストを象徴させ、なおかつサングに伝えるという表現であろう。

義烈団内の個々のグループは解散をするがハン・ミョンゴンをリーダー格としたこの一グループは皆最後まで行動を共にしようとする。

ハン・ミョンゴンは本来、キム・ウォンボンの「組織的な蜂起」路線に同調したかったが、自身の病(肺結核か?)で先がないことを自覚し最後の闘いに赴く。

虚無主義者セルゲイは早い段階で死を迎えている。

行動主義者トルソクは乗船する前に警備の官憲をひきつけ銃撃で死す。

イ・グンは「無政府共産の理想社会を実現させたい」と信念を持ち、その目的遂行のため武装行動に起つ。イ・グンとハン・ミョンゴンは日帝の軍人に銃撃され倒される。そして手を伸ばし、つながり死ぬ。

ラストシーンもサングの回想であり、「今日、私はイ・スンマンと共に同志たちと再会する」という「語り」でとじられる。

これはイ・スンマンの暗殺に向かうという暗示である。

現実にはイ・スンマンは四八年以降も生き続けるわけであるから、サングの行為は未遂か失敗に終わるということは見る方は認識してしまう。

解放後も生き残ったサングが選ぶべき思想は「義烈団」綱領ではなくイ・グンの「理想」とするアナキズムなのではないか。

再びの暗殺行動を示唆するまま終わっては、上海港においてイ・グンがサングに「アナキズム」の語源を伝えたシーンは無になってしまう。