白貞基に関する記事。『自由聯合新聞』


87号 1933年12月10日
「この暴壓を見よ! 元、白両君無期懲役 上海爆弾事件 暗黒裁判」
既報 上海に於ける有吉公使暗殺支那各地の爆弾事件に関連して捕はれた朝鮮の同志元、白、李三君は日本に移送され長崎刑務所にあつたが去月廿四日支配者の暴虐極まる重刑が三君に降つた。即ち元心昌、白貞基両君に無期懲役李康勲君に十五年の恥知らずな判決が下つたのだ。
之に対して三君は交々『吾々はなす可きことをなしたのだ何等恥可きことはない』と毅然として述べた、今吾々は彼の五・一五事件の被告に対する判決とこの朝鮮の同志及びかつての吾々の上に振りおろされた暴壓重刑を比較して如何に法律がいゝかげんなものであり支配者の意のまゝになるものであることを明かに知る、かつての和田久君は、僅一銭銅貨のキズを与へて無期に処せられ、五・一五事件の被告はそのフアツシヨ支配擁護の本質の故に人を殺してしかも叛乱罪で有期懲役に処られたにすぎぬ。かうしたことは当然だ、そして又これと同じことが吾々にかぶさつてくるだらう。
同志読者諸君朝鮮同志への暴壓を銘記して支配者に逆襲せよ。

89号 1934年2月10日
上海爆弾事件の同志
白貞基君を回想す 楊子秋

上海爆弾事件に連座捕へられた朝鮮の同志白貞基、元心昌、李康勲の三君は長崎地方裁判所にて無期、十五年の重刑を受け下獄し今は熊本刑務所に苦役の日を送つてゐるが吾々は同君の等の闘争の中に生かさんため一助としてここに三君の片影を連載する。
白貞基(鳩波)君は1896年全羅北道井邑郡水元面に生を享けた。
少年時代の彼の事はよく分らぬが其頃すでに彼は朝鮮独立運動に叛逆の魂を打ち込んだらしい。生来熱情家にして郷里を愛すること深かつた彼が武力によつて同胞を虐げ、土地を奪ひ朝鮮を荒野と化して行く日本政府の暴悪に見て当時全鮮をおふて居た朝鮮独立運動にその熱情を傾けて行つたのは当然であらう。彼は独立運動に身を投げるやその全能力は全くそれに捧げ尽された。彼は熱情家であると共に非常に冷静な理智の人でもあつた。そして稿記すべきは彼が実行者であつたことである。同志に対しては真からの愛情を以てつくし自己の利益を一顧だにしなかつた。そして追求する官犬の手を逃れ乍ら全鮮に彼の活動は続けられた。
この時彼の胸にあるものは朝鮮民族の幸福これのみであつた次から次へと重なる仕事を異常な決断力と実行力を以て片つ端から果して行く彼の姿は男らしいものだつた。この彼の人格と活動が民衆に反響を与えない筈はない。我の行く所民衆は雲集し新なる叛逆は芽生えて行つた。
当時南支那方面には朝鮮独立運動の闘士が続々と集まつてゐた。
これ等の闘士は彼の巳未解放運動(三・一運動)に参加して国を追われ、或いは勢力の回復地を南支那に求めて集つたのである。勿論白君も其の一人であつた。彼等はそこに於て朝鮮内地と連絡をとりつゝ相助け日夜独立実現、自由獲得に腐心してゐた。それは三・一運動後益々残虐な壓迫を蒙つて又た朝鮮内地民衆の心に新なる叛逆の火を点じ朝鮮における独立運動の焔は総督府の壓迫をはねかへしつゝ拡大し根強く育つて居つたのである。その強大さは朝鮮独立の可能性を民衆に信ぜしめた程であつた。だがそれは間もなく夢にすぎないことが現実となつて行つた。何故なら独立運動指導者等がその勢力の強くなるにつれてやうやくその野心を現はし始めたからである。彼等はこの強大な運動の勢ひに乗じて叛逆の熱情と勇気を持つて集まつた青年達を自己の権力獲得のために利用せんと策動し出したのである。これが一旦企てられると同時に朝鮮独立運動は名実共に骨抜きにされて行つた。莫大な運動資金はそれらの野心家の一連によつて私腹され蕩尽された。今迄の希望は落胆となり有為な青年達は遂に離散するに至つたのである。その状態は冷静な理智と叛逆の熱情に燃えた白君を憤激せしめたは云ふ迄もない。こゝに彼は民族運動の虚偽を悟り真の解放思想を求めた。そして彼の得たものは無政府主義であった。同時に彼の猛烈な再出発の実践が始まつたのである。彼は先づ同じく民族運動の誤謬を悟つて、彼と共に無政府の戦列に馳せ参じた同志と共に上海に於て結成したのが現在も活発な活動をなしてゐる在中無政府共産主義聯盟である。彼等はこれが結成されるや言語に絶えざる迫害や困窮と闘つて行動した。殊に朝鮮民衆を裏切った民族主義者共に対する闘争は酷烈を極めた又一方支配者との闘争も果敢に行われて行った。
民族運動指導者其他にして白君の鉄拳を受けざるものはなかつた。又白君の活躍が支配者にどれ丈け恐怖を与へたかは或年白君が重大使命を帯びて北満に向つて上海を去つた時、上海に居る臨時政府大統領金九が側官に「白鳩沈が上海を去つたから治安が保てる」と云つた一言でも分るであらう。白君の趣くく所爆弾は飛び支配者の血は流された。朝鮮事件、北満龍井村事件、福建に於ける某事件等、枚挙に遑ない程である。此度の上海爆弾事件即ち有吉公使暗殺事件も帝国主義日本に対して彼の叛逆行動の帰結の一つであつたのだ。彼の日夜分たぬ闘争は遂に彼の肉体をむしばんだ。彼は過労に依つて肺の病にとりつかれたのである。然も数多き以上の事件の半ばはその病苦と闘ひつゝなされた仕事であるを思へば何人も驚嘆するであらう。彼が捕はれて
公判廷に出る前の筆者への手紙に「奴等が如何に卑劣な手段を弄しても僕は負けぬ決心だ。検事が如何なる求刑をなさうとも少しも悲惨な感想も気持もない、又無意識な上訴は勿論ある可きでない」と。実に彼の性格がにじみ出てゐるではないか。彼今や無期の重刑を追ひて獄中にある。だがなす可きことをなした彼にとつてはいさゝかの悔いもないであらう。