シン・チェホ公判記事。1930年9月。『東亜日報』。




梶村秀樹著『申采浩の歴史学』≪思想≫誌1969年、シン・チェホに関する記述。
「近代朝鮮史学史の系譜のなかで、最も重要な位置を占める歴史家であるといえる。日帝時代に生きた朝鮮人のなかで、今日、南朝鮮でも北朝鮮でもともに肯定的に評価されている人物は、当然のことながら非常に少ないが、申采浩がその数少ないうちの一人であることも偶然ではないだろう。」
「昨年(24年)上海の『民衆』という週刊新聞にある文士が論文を書いた。『朝鮮人中でも有産者は勢力ある日本人と同じで、日本人の中でも無産者は憐れむべき朝鮮人と同じであるから、われわれの運動を民族によって分けるのでなく、有無産の別によって分けるべきだ』と。有産階級の朝鮮人が日本人と同じであることはわれわれも認めるが、無産階級の日本人を朝鮮人とみるとは非常識である。日本人はたとえ無産者でもうしろに日本帝国がついていて、危険あれば保護し、災害にあえば補助し、子女があれば教育を行ない、むしろ有産朝鮮人以上に豪強に生活している。特に朝鮮に移植した者は、朝鮮人の生活を威嚇する植民の先鋒であるから、無産日本人を歓迎するということは、植民の先鋒を歓迎することにほかならない、と主張。これは当時、「流行」しはじめていた共産主義思想に対する実感的違和感の表明であろう。」
「民族精神を主体の問題としてとことんまでつきつめていった結果、はるかに遠く、むしろ国家、階級支配の総体を心情的に否定する無政府主義に至りつく索漠とした内面の道程を多少とも推察することはできるような気がする。(註・『韓国アナキズム運動史』では20年から李会栄イ・フェ・ヨンと共にアナキズム思想に「至った」という記述)
「<事件>の具体的経緯はまだ私には判っていない。28年3月ごろ上海で柳基錫(安恭根)、李丁奎らが在中国朝鮮無政府主義者聯盟を組織し、機関紙『奪還』を発行したが弾圧を受け、柳らは一時北京に移って活動していたと官憲史料に記されているが、それとの関係などより詳細な記録は公開されていない。(註・『韓国アナキズム運動史』1976年刊。記述されている)
「断片的に報道された法廷での問答をそのまま引用すると次の通りである。(『東亜日報』29年10年7日付け)
裁判長  その後日本無政府主義者幸徳秋水の著作一冊を読んで共鳴し、李弼鉉の紹介で東方無政府主義者聯盟に加入したか。
申   幸徳の著書が最も合理的であると思い、東方聯盟に加入したのは李弼鉉の紹介によるものではありません。
裁判長  東方聯盟には大正14年(1925年)頃入会し、その時、李弼鉉と安一がいたのではないか?
申 日本の年代を使ったことがないから大正何年かは知らないが、ともかく今から三年前の夏に入会しました。
裁判長  東方聯盟の指導者はだれだったか?
申   林秉文でした。
裁判長  では被告は林の紹介で入会したのか。
申   そうです。
裁判長  本部は天津にあったのか?
申   別に本部というものはありません。
裁判長  東方聯盟への加入手続きはどうか?
申   手続きなどというものはなくだれでも加入できます。
 
 20年代なかば孤立した思索の末に無政府主義運動に参加する前後の時期に、申采浩はもっとも精力的に歴史論文を執筆している。代表的な著書である『朝鮮史研究草』『朝鮮上古史』はいずれもこの時期に書かれたものである。」