ムンギョン金子文子墓碑

刑死者は出ませんでしたが不逞社、黒友会へ関わった同志たちが過酷な獄中生活を経て病死しました。すでに記しましたが新山初代は危篤状態で釈放され一一月二七日未明死去、二二歳でした。        
洪鎭祐は不逞社、黒友会に参加していましたが予審免訴になり二四年夏、市ヶ谷を出獄し朝鮮に戻り同志を呼合した「黒旗連盟」を組織します。しかし同志一〇名により不穏な計画と運動に着手したという理由で逮捕、治安維持法により懲役一年の判決を受けます。服役中に病が重くなり、京城大学病院にて二八年五月一八日午後五時二五分、妹達少数の友人に見送られ死去します。三二歳でした。
金正根は真友連盟事件で五カ年の懲役判決を受け大邱監獄にて服役中、肺の病で出獄を認められ自宅へ帰り「やせていてまるで骸骨のようで見るに忍びぬ哀れな姿」という様子でした。家の周りは警察が厳重な警戒、同志友人等の訪問も自由にならないなか多量の喀血をなし二八年八月六日、死去しました。三九歳でした。(『自由連合』紙参照)。
金子文子・朴烈の裁判過程から大審院判決後にかけて、同志たちは黒友会、不逞社の活動・名称を継承します。官憲の資料(『高等警察要史』慶尚北道警察部刊、三九年三月発行、六七年復刻版)に日帝本国内の朝鮮人アナキストの「動向」が残されています。                       
「不逞社検挙後の残党張祥重、李弘根、元心昌等一味の者は徐々に挽回運動に努め……」
「内地人無政府主義団体黒色青年連盟に加入せるが彼等はあくまで朴烈の遺志を継承する為とて[不逞社]と改称し同年十二月機関紙『黒友』を発行せるも発禁処分となりたるを以て」

 黒友会の継承と救援活動

大審院の公判前後に東京に滞在した朝鮮のアナキスト、チェ・カムニョンの回想にも黒友会の存在が記述されています。
「黒友会のイ・ホングンをしばしば訪れるようになった。…黒友会の応接間、南側壁には朴烈、金子文子、新山初代などの写真が、北側壁には大杉栄伊藤野枝の写真が貼ってあった」。   
 また四年後に運動紙に掲載された金正根の追悼略伝にも黒友会は描写されています。「金正根は一九二〇年、日本に渡り行商をしなが苦学して早大に入学。不逞社へ出入り、鶏林荘に滞在して運動、震災後は黒友会に参加し二五年五月、同志と共に家を借りその事務所とする。…金子文子さんの死を伝える電報が届いた。同志等は驚いた。彼女がまさか、と自殺を信ずるものは一人もいなかった。彼は同志四、五人と布施弁護士と共に栃木刑務所へ赴いた。そして遺骨が布施氏宅へ着くや間もなく、遺骨紛失事件を起こし(遺骨は紛失したのではなく追悼会を催さんと同志の手によって持ち出されて、本を包んで遺骨のように見せかけ終に番犬共をがっかりさせた事件)彼は検束されたが………」(「叛逆者伝一九」金墨君(正根)朝鮮 宋暎運『自由連合新聞』四八号一九三〇年六月)。
 そして『高等警察要史』には「…同年(二五年)十一月連盟員(真友)、方漢相が東京に潜行し約三箇月滞在して内地人無政府主義者と往来したることあり其の後方漢相、申宰模の両名は在京の同志と頻繁に交通せることありたるのみならず」という記述もあります。
朝鮮から方漢相が東京を訪れたのは大審院の公判傍聴が目的でした。当初二五年一二月に開廷されるはずであり、それに合わせての一一月の東京訪問です。               
「両名は嘗て朴烈の入獄に対し義捐金を送付したる形跡あり」この記述が朴烈、金子文子への更なる支援と、そのための東京訪問であるということを証拠付けています。
 
 栗原一男の活動

また、二人への死刑に対処するため栗原一男が事前に朴烈の身内、朝鮮の同志たちと接触したことも「真友連盟事件」のフレームアップへと関連付けられました。判決直後の二六年四月のことです。
「二、犯罪事実 (一) 栗原の来朝鮮と破壊暗殺の教唆関係者の供述を総合するに本年(二六年)四月栗原一男が朴烈死刑の場合屍体引取りに要する委任状及金子文子の入籍に関する用務と称し朴烈の兄朴廷植に面会すべく大邱に来れる際……」
 金子文子、朴烈が刑務所内で結婚届を出したのが三月二三日、判決が二五日、減刑が本人に伝わるのが四月五日ですが、栗原が判決直後に急きょ朝鮮に向かい朴烈の兄を訪れたことが確認されます。栗原は予審免訴により釈放され二人への救援活動、面会を続けていました。
栗原に対しては二人への判決後も兵役を口実に活動の封じ込めが図られ五月一日に教育召集の対象となります。(『労働運動』十七号六月一日消息欄掲載)。そして「麻布三連隊に入営中だった栗原一男君は七月三〇日除隊」と黒色青年連盟の機関紙『黒色青年』(五号九月五日発行)に消息記事が掲載されています。金子文子の死因究明が取組まれる前日に「除隊」しますが追悼のための遺骨移動「事件」により検束されてしまうわけです。

「真友連盟」

このように不逞社への弾圧後も二五年から二六年にかけて朝鮮のアナキストは活動を継続していました。二三年、震災直後の不逞社メンバーへのフレームアップでは故郷に戻っていたところを検束されたメンバーもいました。彼らも一年前後の予審で免訴になり幾人かは再び朝鮮に戻りアナキストとして社会解放運動を目指していました。そして朴烈と金子文子が囚われている状況を同志たちに伝え、大審院開廷を前に救援活動を広げまたが徹底した弾圧を受け続けました。
さらに『高等警察要史』は市ヶ谷刑務所に一年前後も拘留されたあげく予審免訴で朝鮮に戻った不逞社の徐東星の名を繰り返し挙げています。
「大正十四年九月大邱に於ける主義者等相集り親睦修養を標榜して真友連盟を組織したるが……朴烈事件に連座し予審免訴となれる徐東星が朴烈の遺志を継ぎ志操強固にして犠牲的精神に富む同志八名を糾合し組織したるもの」。
「然るに先是不逞社事件の関係者徐東星は予審免訴となりて大邱に帰来後大正十四年九月同志を糾合して朴烈の遺志を継承実現すべく真友連盟を組織し別項重要事件記載の如き不逞行動を画し未然に検挙せられたり」。
不逞社と真友連盟を結びつけた記述には連盟を当初から潰すというこんたんが認められます。
徐東星が大邱に戻り読書会、交流団体である真友連盟を組織した行為を「朴烈の遺志」に結び付け、すなわち「大逆事件」を再び起こしかねないという「陰謀」集団としてフレームアップさせているのです。

黒色青年連盟と二人への支援      

黒色青年連盟に参加したグループの中心メンバーは、「大逆罪」の被告とされた金子文子、朴烈への支援に大きく関わり面会や大審院の傍聴を追及します。とくに栗原一男は不逞社の当事者であり、連盟でも中心的に活動を担います。警察関係資料中の「東宮職特警発」(『即位大礼警衛関係』廣畑研二編集、不二出版)に同志たちによる市谷刑務所の二人への面会者記録が限定された時期ですが報告され、記録された活動家はいずれも黒色青年連盟に
参加しています。
 二六年二月一日から一〇日に主な活動家として不逞社の同志であった鄭泰成、栗原一男(二六年当時は自我人社)、同じく自我人社の井上新吉、サラリーマン同盟の江川菊次郎、黒友会の韓吉(韓漢吉)、同じく金正根、徐相漢の名を確認できます。リストには合わせて一六人の名が記され、押しかけと思われますがキリスト信仰者も見受けられ、そして同資料には面会への「感想」も報告されています。
黒友会、韓吉「…自分は朴烈に大いに同情を有する一人にして毎度面会して彼の心情を慰め居れり帝国主義軍国的侵略主義の国家は常に弱小民族を圧迫すべき其の宣伝材料として彼を犠牲となしたり……」
朝鮮無産青年同盟会、安鐘吉(甲号)
「彼(朴烈)の行為は朝鮮人の意思を代表して日本国民に告げたるものと考えます。思うに現総督政治を此侭遂行したならば朴烈以上の行為者が出ないとも限りません。朝鮮と云う民族は永遠に滅亡しないものであります……」
朝鮮の社会主義者たちの率直な感想であり朴烈への支持の気持ちと独立に向けた強い意志が著されています。
この資料中には公判状況も報告され活動家たちが大審院の審理の公開を求めたことを「一般傍聴人は特別傍聴を許可せよとし喧噪したるを以って」とし、「其主謀者古川時雄、元心昌、武良二、横山楳太郎、韓吉、椋本運雄、山本勘助(筆者註、ダダイスト詩人のペンネーム)の七名を検束して鎮静し退散せしむ」と報告しています。(前出『即位大礼警衛関係』)。
同志たちや一般の人々には非公開とする一方、空いた傍聴席に政府、司法、官憲の関係者の特別傍聴を認めています。その所業への同志たちの抗議が検束の根拠とされているのです。栗原は唯一特別弁護人として審理の場に立ち会い二人の裁判を支えることができました。


黒色青年連盟の創設

同連盟は前年の二五年からアナキズム系のグループ、労働組合有志の共同行動の中から自由連合主義に基づく連絡組織の必要性が求められて準備されました。一月二日、九日に準備会を開き一五日に参加二〇団体、六一名にて総会を開催、結成となりました。ただちに「結成宣言書」を配布しますが翌日、発売頒布禁止の処分が出されます。(「警保局調」『続・現代史資料アナーキズムみすず書房)。
一月三一日、演説会を芝の協調会館で開き、自我人社の一員として連盟に参加した栗原一男はその演説会の司会をつとめます。
「宣伝演説会の状況」(東宮職特警発第十六号二月一日、『即位大礼警衛関係』収載)では発言者全員の名が記されています。
二人への面会、傍聴追及で他の資料でも名が確認されるグループ、個人を抜書きします。
「黒色青年連盟演説会状況に就て」。司会栗原一夫(ママ)、演説第一席 栗原一夫。山田作松、自然児連盟。深谷進、自我人社。後藤学三、解放戦線。山本勘助、黒旗社。深沼弘胤、自然児連盟。古川時雄、論戦社。高村君春、黒友会。椋本運雄、自然児連盟。韓某、黒友会。猛某、黒友会。近藤憲二、労働運社。木下茂、自然児連盟…。

黒旗事件

そして「栗原一夫の音頭にて黒色青年連盟万歳三唱して…散会し協調会館を出て芝浜松町本部に至り尚他の一部は銀座通りを横行して暴行をなしたる…」と「東宮職特警発」は記述しています。
連盟の機関紙である『黒色青年』創刊号では、東京地方に散在するアナキズム団体の最初の会合であったこと、四〇数名の弁士のほとんどが「弁士中止」とされたことが主催者により報告され、「…遂に午後九時散会するに 余儀なかった。…会衆は街頭へ出た。黒色青年連盟と染めなされた黒旗は高く頭上に翻って銀座へ!! 銀座へ!! 夜の銀座は歓楽の巷であるブルジョワの巣窟である。…遂に同志二二名を市ヶ谷刑務所に送らねばならなかった」。(二六年四月五日発行)と勇ましく描写しています。しかしそれに対し支配層は過剰に恐れをなし議会で論議になります。
報道は「銀座の暴行事件は果して何人の責任ぞ、無警察に等しき帝都の取締を、政本相提携して内相に迫る、衆議院本会議、銀座街頭の暴行と革命歌高唱」と見出しを付けます。
野党の追及、「この危険なる思想の表現として帝都の中央部に暴行事件が起ったことは一つの革命とも見られるではないか」に対して若槻首相直々の答弁は「協調会館の演説会では著しき事故もなく解散をしたがその一部の者のうち約三十名は銀座街に出たので電話で警戒を通報した」と報じられています。(『東京朝日新聞』二月三日付夕刊)。
しかしこの「事件」自体は突発的な器物損壊等のため前年に制定された治安維持法の適用はできませんでした。

大逆の意思と治安維持法

真友連盟事件は「不逞社事件」から継続された弾圧です。政府は「不逞社事件」では金子文子、朴烈以外のメンバーを大逆罪どころか治安警察法でも公判に持ち込めず、黒色青年連盟による黒旗事件(銀座事件)においても警備の失態と治安維持法を行使できないという屈辱を喫していました。
その報復のため、市谷刑務所への面会や「大逆罪」を裁く大審院の公判傍聴闘争、金子文子の追悼行動へ大きく関わった黒色青年連盟メンバーの椋本運雄、栗原一男、金正根を真友連盟の周辺にいた仲間の偽証によりこじつけ治安維持法違反としたものです。
「大正時代」の末期、すでに植民地化した台湾、朝鮮に続き,さらなるアジアへの侵略を推進するため天皇国家の体制を強化することは必然でした。
実質に天皇家は「代替わり」をしていましたが、予期される「代替わり」儀式、皇室行事を軸に国民意識を統合するため「大逆」の意思をもち社会を変革する全ての勢力は排除の対象でした。とりわけ被植民地における勢力に対しては徹底した弾圧を加えていたわけです。
関東大震災の後、二三年一二月に難波大助が自動車で移動中の摂政宮を襲撃した虎ノ門事件、二四年一月に皇居二重橋で朝鮮の活動家キム・ジソップが爆弾を投擲した事件、二五年になり予審法廷で金子文子、朴烈が大逆の意志を明らかにしたこと、二六年三月、ギロチン社、中濱鐵が大阪控訴院で、二三年に古田大次郎(二五年一〇月刑死)と盟約を結び摂政宮を狙った行動や皇族への危害を企図していたと述べたこと(非公開裁判)の連続が政府を驚愕させ、キム・ジソップや中濱鐵の件ではあえて「大逆罪」の適用を回避しています。
中濱への控訴院陳述後の弾圧は徹底し、二六年三月六日には偶発的な強盗殺人事件を示唆したという訴因により死刑判決が出されました。  
その直後から同志たちとの面会を妨害されたことを山崎今朝弥弁護士宛の手紙で明らかにし、「大阪のA女子のハガキ、三月二七日〈あなたに面会に来られた方々は皆検束されました。大阪の人達も全部検束されて居ります。今日私が参りましたが、面会するのだったら引っ張る、との事でしたから残念でしたが子供を伴れていたので帰ります〉…この十日余り誰も来ないことを雄弁に物語っている」と報告をしています。大阪控訴院での「大逆」の陳述による中濱の「意志の波及」を遮断する施策を図ったわけです。 
中濱は四月一五日に処刑されますが関西の同志たちは関西黒旗連盟を結成し黒色青年聯盟に参加します。『浜哲死刑執行前後』が報告され、また五月十四日夜に「鉄君の追悼会に黒旗青年十八名の廿日間拘留と大阪追放等の暴圧と闘ひつつ…」と追悼をした同志たちが二〇日も拘束され、さらに追放されるという過酷な弾圧を報告しています。〈関西に輝く黒旗の光り〉『黒色青年』四号、二六年七月。
震災前から政府は「過激法案」制定を画策しアナキストコミュニストの闘争を封じ込めようと図ってきましたが、より早期に有効な治安法の制定を画策していました。
そして震災後、普選法制定に向けた動きは治安法も伴い活動家、社会変革派の労働者と民衆を分断するものとなり、二五年五月の治安維持法制定へと至り、真友連盟事件のように朝鮮における適用がエスカレートされ過酷な弾圧を伴うものとなりました。「真友連盟事件」は二六年一〇月、大邱地方予審に廻され、翌二七年三月八日に予審が終結、栗原一男、椋本運雄、金正根の三人は免訴(起訴されず)になります。しかし検事が覆審法院に抗告し法院は免訴を取消してしまいます。

治安維持法へのこじつけ

再びの予審における決定書を引用します。
まず三人が活動基盤としていたグループの構成を記述しています。
「被告人栗原一男東京市内に於て、…無政府主義的運動を目的とする結社《自我人社》を、」、「被告人椋本運雄は同じく東京市内に於て…同一目的を有する《黒化社》なる結社を組織し」、「又被告人金正根は朴烈こと朴準植が組織したる無政府主義的結社なる《黒友会》に加盟し、朴烈下獄の後は其の首領として現に同会の牛耳を執りたるが…」。
「同被告人等は相謀り、汎く全国に於ける無政府主義的思想の懐抱者を結合統一して其の目的とする理想社会の実現運動を促進せしめんことを企画し、大正一五年一月中、右被告人等の組織せる自我人社、黒友会、及び黒化社を中心として……其他各地の無政府主義傾向に在る団体を糾合して黒色青年連盟なる一大結社を統合し…」。
 個別のグループの目的までフレームアップをできない故に黒色青年連盟の活動目的を治安維持法違反にあてはめる規定をします。具体的に記述をしていませんが「騒擾暴行」は、銀座での黒旗事件を根拠にし「…其の目的達成の為には騒擾暴行其の他生命身体又は財産に危害を加ふべき犯罪を暗示せる所謂破壊的直接行動に依るの外なき旨を以て」と規定し、続けて「内地並に朝鮮に於ける同志を激励煽動し居りたるものなり」と記し、侵略に抗する同志たちの連帯を治安維持法違反に強引に結びつけています。 
まず読書、交流の団体である真友連盟に「不穏」の動きがあり「破壊的直接行動」を企図していたという第一のフレームアップをすすめます。その「真友連盟」に栗原たちが接触し黒色青年連盟への加入へとつながったことから治安維持法違反という第二のフレームアップへと拡大させたわけです。自由連合の黒色青年連盟を「一大結社を統合し」という乱暴な認定で、実行行為を裁くものではなく治安維持法を適用できる結社に属していたということで思想を裁いているわけです。
三人は公判に付され二七年六月二五日の判決公判で栗原、椋本は懲役三年、金は懲役五年の実刑を言渡され即日下獄、満期の一九二九年六月一九日、椋本、栗原は釈放となりました。